はじめに
ノイズフロアに埋もれてしまうような微小な信号を計測するのは容易なことではありません。例えば、非常に小さな抵抗値や、背景の照度が高い状況における光の吸収量/反射量、ノイズの多い環境における歪みの大きさなどを計測したいケースです。同期検波を活用することにより、そうした微小な信号を容易に計測できるようになります。
多くのシステムでは、周波数がゼロに近づくにつれてノイズが大きくなります。例えば、オペアンプの場合、1/fノイズによってそのような特性が現れます。また光の計測は、周囲の照度の変動に起因するノイズの影響を受けます。測定したい信号を低周波のノイズから遠ざければS/N比が高くなり、より微弱な信号まで検出することが可能になります。例えば、光源を数kHzに変調することにより、変調しなければノイズに埋もれてしまうほど微小な反射光を測定することができます。図1は、もともとはノイズフロアに埋もれていた信号に変調を施すことにより、計測が行えるようになる様子を表したものです。
励起信号の変調処理にはいくつかの方法があります。最も簡単なのは、信号のオン、オフを繰り返すというものです。この方法は、LEDの駆動、歪みゲージ用ブリッジ回路の電源やそのほかの励起源に対して有効に働きます。分光機器で使われる白熱電球など、オンとオフを簡単に切り替えることができない励起源では、機械的シャッターによって光を周期的に遮断することによって変調を実現できます。
通過域の狭いバンドパス・フィルタを使用すれば、対象とする周波数以外のすべての成分を除去できます。それにより元の信号を復元できることになりますが、ディスクリートのデバイスを使用して所望のフィルタを設計するのは容易なことではありません。その代わりに、同期復調器を使用すれば、変調された信号をDCに戻すことができます。その際には、リファレンスと同期のとれていない信号を除去することも可能です。この技術に使用されるデバイスはロックイン・アンプと呼ばれています。
図2に、ロックイン・アンプを利用した単純なアプリケーションの例を示しました。これは、テストの対象物の表面の汚染状況を計測するためのものです。まず、光源からの光を1kHzで変調し、その光で表面を照らします。そして、フォトダイオードにより表面からの反射光を測定します。その反射光の強度が、蓄積された汚染量に比例するというものです。リファレンス信号と被測定信号は、周波数と位相が同じで、振幅が異なる正弦波です。フォトダイオードを駆動するリファレンス信号は一定の振幅を持ち、被測定信号の振幅は反射光の強度に応じて変化します。
2つの正弦波を乗算した結果は、各正弦波の周波数を加算した周波数と減算した周波数の成分を持つ2つの信号になります。このアプリケーションの場合、2つの正弦波の周波数が同じなので、一方の信号はDCになり、他方の信号は元の周波数の2倍の周波数信号になります。負の符号は位相が180°異なることを意味します。ローパス・フィルタを適用すれば、DC成分を除くすべての成分を除去することができます。
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この手法の利点は、入力信号にノイズが多いケースを考えると明確になります。乗算結果である出力の中には、DC以外の周波数成分が含まれています。必要なのは変調周波数によって生成されたDC成分だけです。図3は50Hzと2.5kHzに強いノイズ源のあるシステムを表しています。そして、対象とする非常に微弱な信号は1kHzサイン波に変調されています。入力とリファレンスを乗算した結果としては、DC、950Hz、1050Hz、1.5kHz、2kHz、3.5kHzの信号が現れます。必要な情報はDC成分に含まれているので、ほかの周波数成分はローパス・フィルタによって除去して構いません。
対象となる信号の近傍にあるノイズの成分はDC近くの周波数に現れます。したがって、近傍に強いノイズ源を持たない変調周波数を選定することが重要です。この条件を満たせない場合には、セトリング・タイムが長くなるという犠牲を払ってでも、非常に低いカットオフ周波数とシャープな応答特性を備えるローパス・フィルタを使用する必要があります。
実用的なロックイン・アンプの実装
信号源を変調するために正弦波を生成するのは非実用的だという考え方があります。そこで、システムによっては正弦波の代わりに矩形波が使用されます。励起信号として矩形波を生成するのは正弦波を生成するよりもはるかに簡単です。マイクロコントローラの端子のような簡単なものを使用して、アナログ・スイッチやMOSFETを駆動することでも実現できるからです。
図4に示したのは、ロックイン・アンプの簡単な構成方法です。マイクロコントローラなどのデバイスによって矩形波の励起信号を生成し、センサーを動作させます。1つ目のアンプとしては、フォトダイオード用のトランス・インピーダンス・アンプや歪みゲージ用の計装アンプなどの使用が考えられます。
アナログ・デバイセズ(ADI)のSPDTスイッチ「ADG619」は、センサーを励起するのと同じ信号で制御します。励起信号が正の場合、アンプのゲインは+1に設定されます。一方、励起信号が負の場合には、アンプのゲインは-1になります。これは、測定の対象とする信号とリファレンスである矩形波とを乗算することと数学的に等価です。出力部のRCフィルタによってほかの周波数成分が除去され、出力電圧は測定の対象となる矩形波のピーク・ツー・ピーク電圧の1/2に等しいDC信号になります。
このシンプルな回路においては、適切なオペアンプを選択することが重要です。入力ステージのACカップリングによって低い周波数の入力ノイズの大半は除去されます。しかし、最終ステージのアンプからの1/fノイズとオフセット誤差は除去されません。高精度のオペアンプ「ADA4077-1」は0.1Hzから10Hzにおけるノイズが250nV p-p、オフセット・ドリフトが0.55μV/℃です。したがって、この用途における理想的な選択肢となります。
矩形波を利用するロックイン・アンプはシンプルなものですが、ノイズを除去する性能が正弦波を使用する方法よりも劣ります。図5に、励起とリファレンスに矩形波を使用した場合の動作を周波数領域で示しました。矩形波は、基本波である正弦波とすべての奇数次高調波の無限和になります。同じ周波数の2つの矩形波を乗算するということは、リファレンスの各正弦波成分と被測定信号の各正弦波成分とを乗算することになります。その結果は、矩形波の全高調波のエネルギーを含んだDC信号になります。奇数次の高調波の周波数に現れる不要な信号は、高調波の次数に応じて振幅は低下するものの、フィルタによって除去することはできません。そのため、変調周波数は、その高調波が既知のノイズ源の周波数や高調波に重ならないように選定することが重要です。例えば、ライン・ノイズを除去できるようにするために、変調周波数としては、50Hzの第20次高調波である1kHzではなく、50Hz/60Hzの高調波に一致しない周波数である1.0375kHzを選択するといった具合です。
このように欠点は存在するものの、この回路であればシンプルかつ低コストで実現できます。ノイズの少ないアンプを使用し、正しい変調周波数を選択すれば、DCの計測を行ううえで大きな改善が得られます。
ICを使用したシンプルな手法
図4の回路は、1個のオペアンプとスイッチに加え、いくつかのディスクリート部品、マイクロコントローラからのリファレンス・クロックを必要とします。それを置き換える手段として、図6に示すようなIC化された同期復調器を使用する方法があります。「ADA2200」は、入力バッファ、プログラマブルなIIR(無限インパルス応答)フィルタ、乗算器、リファレンス信号の位相を90°シフトさせる回路ブロックを内蔵しています。そのため、リファレンス・クロックと入力信号の間での位相シフトの測定/補償も容易に行えます。
ADA2200を使用してロックイン検波回路を構成するには、図7に示すように、リファレンスとして使用する周波数の64倍の周波数のクロックを供給する必要があります。プログラマブルなフィルタのデフォルトの設定は、バンドパス応答になっており、信号をACカップリングする必要はありません。サンプリングされたアナログ出力では、サンプリング・レートの整数倍の周りに像が形成されます。それらの像は、シグマ・デルタ(ΣΔ)方式A/Dコンバータ(ADC)の前段のRCフィルタによって除去することができ、復調されたDC成分だけを測定できます。
矩形波を使用するロックイン回路の改善
図8に、矩形波を使用する変調回路が改善される原理を示しました。センサーは矩形波で励起されますが、被測定信号は同じ周波数と位相を持つ正弦波と乗算されます。この場合、基本周波数の信号成分のみがDCに変換され、ほかの高調波はすべてゼロではない周波数に変換されます。その結果、ローパス・フィルタを使用することで、被測定信号であるDC成分を除くすべての成分を除去できることになります。
ロックイン・アンプの設計には1つ問題があります。それは、リファレンス信号と被測定信号の間に位相シフトが生じると、完全に位相がそろっている場合と比べて出力が低下するということです。この現象は、センサーのシグナル・コンディショニング回路に位相遅れを引き起こすフィルタが含まれている場合に生じます。アナログのロックイン・アンプでは、この問題に対処する手段は1つしかありませんでした。それは、リファレンス信号の経路に位相補償回路を追加することです。その回路は、さまざまな位相遅れを補償できるよう調整が行えるものでなければなりません。また、温度や部品の許容誤差に依存して生じる変動にも対応しなければならないので、単純ではありません。それに代わる簡単な方法は、位相が90°異なるリファレンスと被測定信号とを乗算する第2ステージを追加することです。この第2ステージの出力は、図9に示すように、入力に対して逆位相の成分に比例する信号になります。
2段の乗算ステージの後に続くローパス・フィルタの出力は、入力信号の同相成分(I)と直交位相成分(Q)に比例する低周波の信号になります。入力信号の振幅は、単にI出力とQ出力の二乗和を計算するだけで求められます。このアーキテクチャがもたらすもう1つのメリットは、励起/リファレンス信号と入力信号の間の位相差を算出できることです。
ここまでに紹介したロックイン・アンプは、いずれもセンサーを励起するためのリファレンス信号の生成回路を使用しています。究極の改善は、外部信号をリファレンスとして使用できるようにすることです。例として、対象物の表面の光学的な特性試験に、広帯域の白熱光を使用するシステムを考えます(図10)。このようなシステムによって、鏡面の反射率や表面の汚染量などのパラメータを測定することができます。白熱光源の変調には、電子的な変調器を使用するよりも、機械的なディスク・チョッパを使用する方がはるかに容易です。ディスク・チョッパの近くに低コストのポジション・センサーを取り付ければ、ロックイン・アンプに供給するための矩形波のリファレンス信号を生成できます。この信号を直接使用するのではなく、PLLによって入力リファレンスと同じ周波数、位相の正弦波を生成します。このアプローチにおいて1つ注意を要するのは、内部で生成する正弦波の歪みを極力抑えなければならないということです。
このシステムは、ディスクリートのPLLと乗算器を使用して構成することも可能です。しかし、FPGAを利用してロックイン・アンプの機能を構成すれば性能面でいくつかのメリットが得られます。図11にFPGAを使用して構成したロックイン・アンプを示しました。このフロント・エンドは、ゼロ・ドリフト・アンプ「ADA4528-1」と分解能が24ビットのΣΔ方式ADC「AD7175」をベースとしています。このアプリケーションでは、それほどの広帯域性能は必要ないので、ロックイン・アンプの等価ノイズ帯域幅を50Hzに設定できます。被測定デバイスは外部からの励起が可能なセンサーです。ADCのフルスケール・レンジを活用できるよう、アンプのノイズ・ゲインは20に設定します。DC誤差は測定には影響しませんが、特にアンプのゲインを高く設定した場合に、有効なダイナミック・レンジを狭めてしまうため、オフセット・ドリフトと1/fノイズを最小化することが重要です。
ADA4528-1の入力オフセット誤差は最大で2.5μVです。これは、AD7175を2.5Vのリファレンスで動作させた場合、フルスケールの入力レンジの10ppmに相当します。ADCの後段のデジタル・ハイパス・フィルタは、あらゆるDCオフセットと低周波のノイズを除去します。出力ノイズを計算するには、まずAD7175の電圧ノイズ密度を計算します。同製品のデータシートを見ると、ノイズは5.9μV rmsと規定されています。この値は、出力データ・レートが50kSPS、sinc5+sinc1フィルタを使用、入力バッファはイネーブルという条件下でのものです。この条件での等価ノイズ帯域幅は21.7kHzとなり、電圧ノイズ密度として40nV/√Hzという値が出ます。
ADA4528では、5.9nV/√Hzの広帯域入力ノイズが、出力では118nV/√Hzのノイズとして現れます。ほかのノイズを含めると、トータルのノイズは125nV/√Hzになります。デジタル・フィルタの等価ノイズ帯域幅はわずか50Hzなので、出力ノイズは881nV rmsになります。そのため、入力レンジが±2.5Vである場合、126dBのダイナミック・レンジを備えるシステムを実現できます。ローパス・フィルタの周波数応答を調整することにより、帯域幅とダイナミック・レンジのトレードオフを実施できます。例えば、フィルタの帯域幅を1Hzに設定するとダイナミック・レンジは143dBになり、帯域幅を250Hzに設定すれば、ダイナミック・レンジは119dBになります。
デジタルPLLは励起信号にロックした正弦波を生成します。この励起信号は、内部、外部のうちいずれで生成したものでも構いませんし、正弦波である必要もありません。リファレンスとして使用する正弦波の各高調波は入力信号と乗算され、その結果、各高調波の周波数に現れるノイズと不要な信号が復調されることになります。この過程は2つの矩形波を乗算する場合と同様です。リファレンスとして使用する正弦波をデジタルで生成することのメリットの1つは、ビット精度を調整することによって、歪みを非常に低く抑えられることです。
図12は、4/8/16/32ビット精度で正弦波をデジタルで生成した結果です。4ビット精度の場合の性能は、図5の場合とほとんど変わりません。しかし、精度を上げるに従い、状況が急速に改善されることがわかります。16ビット精度では、全高調波歪み(THD)を十分に抑えたアナログ信号を生成するのは難しいようです。しかし、32ビット精度ではTHDが-200dBを超え、アナログ回路とは比べものにならない性能が実現されています。しかも、これらはデジタル的に生成された信号なので、完全な再現性が得られます。いったんデータがデジタル変換されてFPGAに入力されれば、ノイズやドリフトが付加されることはありません。
乗算器の後段では、ローパス・フィルタによってすべての高周波成分が除去され、信号の同相成分と直交位相成分が出力されます。等価ノイズ帯域幅はわずか50Hzなので、元のサンプリング・レートである250kSPSでデータを供給する理由がなくなります。そのため、ローパス・フィルタには出力データ・レートを下げるためのデシメーション・ステージを含めることが可能です。最後のステップでは、同相成分と直交位相成分から入力信号の振幅と位相が算出されます。
まとめ
ノイズフロアに埋もれた小さな低周波の信号を測定するのは容易なことではありません。しかし、変調技術とロックイン・アンプ技術を利用すれば、そうした信号を高精度で測定することが可能になります。最も単純なロックイン・アンプは、2種類のゲインを切り替えるオペアンプによって構成できます。この方法では、最高のノイズ性能を得ることはできませんが、回路が簡素であり、コストも抑えられます。そのため、単純なDC計測手法と比べると、魅力的な選択肢になります。この回路を改良するには、正弦波を生成するリファレンス回路と乗算器が必要になりますが、それをアナログ領域で実装するのは決して容易なことではありません。究極の性能を得るには、分解能が高い、低ノイズのΣΔ方式ADCを利用して入力信号をデジタル化すべきです。加えて、リファレンス用の正弦波信号やそれに関連する要素をすべてデジタル領域で生成することを検討するべきでしょう。