はじめに
デジタル・ビームフォーミング方式を採用した大規模なアンテナでは、多くの波形発生器からの信号、あるいは多くのレシーバーからの信号を結合する処理が行われます。このビームフォーミング処理によって、ダイナミック・レンジを改善するということです。仮に、各種の差要因に相関関係がなければ、ノイズ性能とスプリアス性能の両方について、ダイナミック・レンジの数値が10logNだけ高まります。ここでNは、波形発生器またはレシーバーのチャンネル数です。ノイズは本質的に極めてランダムな性質のものです。そのため、相関のあるノイズ源と相関のないノイズ源を区別するのは比較的容易です。それに対し、スプリアス信号の相関を強制的に排除するのは容易ではありません。この排除の処理を実現することができれば、フェーズド・アレイ・システムのアーキテクチャに対して、大きなメリットがもたらされることになります。
実は、スプリアス信号の相関を排除する手法は、既に公開されています。それは、LO(局部発振器)の周波数にオフセットを加え、そのオフセットをデジタル的に補償するというものです。本稿では、まずこの手法の概念について解説します。次に、アナログ・デバイセズの最新のトランシーバーIC「ADRV9009」が備える機能を使うことで、その概念を具現化する方法を説明します。最後に、この手法の効果を確認するための実測データを示すことにします。
スプリアスの相関を排除するための既知の手法
フェーズド・アレイにおけるスプリアスの相関を排除する方法は、かなり以前からいくつも考案されてきました。筆者らが入手した中で最も古い文献は、2002年に公開されたものです1。その文献には、レシーバーのスプリアスの相関を確実に排除するための一般的な手法について記されています。その手法では、まず、各レシーバーの信号に対して、既知の方法で変更処理を加えます。各信号は、レシーバーの非線形部品の影響で歪んでいきます。次に、レシーバーの出力において、それまでに加えられた変更処理の反転を意味する処理を適用します。対象となる信号はコヒーレントになり相関を持ちますが、歪みの成分は復元されません。この手法の実証テストでは、変更処理として次のようなものが使われました。それは、各LOシンセサイザが異なる周波数を出力するように設定し、デジタル処理によって数値制御発振器(NCO)を制御することで、変更処理に対する補正を加えるというものです。なお、これ以外にも複数の手法が既に公開されています2、3。
歳月を経て、半導体技術は大きく進化しました。その結果、トランシーバーのサブシステム全体を1つのモノリシックなチップ上に集積できるようになりました。また、細心のトランシーバーIC製品は、非常に高度でプログラマブルな機能を搭載するようになりました。それらの機能を使えば、「Correlation of Nonlinear Distortion in Digital PhasedArrays: Measurement and Mitigation」1に記されている、スプリアスの相関を排除するための手法を実現できます。
トランシーバーICの機能によりスプリアスの相関を排除
図1に、ADRV9009の機能ブロック図を示しました。
各波形発生器またはレシーバーは、ダイレクト・コンバージョンのアーキテクチャに基づいて実装されています。ダイレクト・コンバージョンのアーキテクチャについては、DanielRabinkin氏による文献「Front-End Nonlinear Distortion andArray Beamforming」をご覧ください4。LOの周波数は、各IC上でそれぞれ個別にプログラムすることができます。デジタル処理部には、NCOを使用したデジタル・アップ・コンバージョンとデジタル・ダウン・コンバージョンの処理が含まれています。NCOも各ICでそれぞれ個別にプログラムすることが可能です。デジタル・ダウン・コンバージョンについては、PeterDelos氏による文献「広帯域RFレシーバー・アーキテクチャ・オプションの検討」をご覧ください5。
続いて、複数のトランシーバーにわたってスプリアスの相関を排除する方法について説明します。まず、オンボードのフェーズ・ロック・ループ(PLL)をプログラムすることにより、LOの周波数にオフセットを加えます。続いて、そのオフセットをデジタル的に補償するように、NCOの周波数を設定します。両方の機能の調整をトランシーバーICの内部で行うことにより、トランシーバーに入出力されるデジタル・データの周波数にオフセットを加える必要がなくなります。トランシーバーICには、周波数を変換する機能とスプリアスの相関を排除する機能の全体が組み込まれることになります。
図2に示したのは、波形発生器のアレイを表すブロック図です。以下では、この波形発生器を前提とし、相関を排除する手法について説明したり、データを示したりすることにします。なお、この手法は、レシーバーのアレイにも同じように適用できます。
図3は、周波数の観点から相関を排除する方法を説明するための概念図です。これは、ダイレクト・コンバージョンのアーキテクチャから送信された2つの信号を表しています。ご覧のように、RF出力がLOよりも高い周波数に存在します。ダイレクト・コンバージョンのアーキテクチャにおいて、イメージと3次高調波は、LOの周波数よりも低い周波数に現れます。LOの周波数をすべてのチャンネルで同じ周波数に設定すると、図3(a)に示すように、スプリアスの周波数も同じになります。図3(b)に示したのは、LO2の周波数をLO1よりも高く設定した場合の例です。デジタルで制御されるNCOは、RF信号がコヒーレントなゲインを得るように、同じようにオフセットを与えます。イメージと3次高調波歪みとでは、周波数が異なります。したがって、両者に相関関係はありません。図3(c)は、図3(b)と同じ構成でRF搬送波に変調を加えた場合の様子を表しています。
測定結果
筆者らは、8チャンネルのトランシーバーをベースとするRFテスト環境を構築しました。それにより、フェーズド・アレイのアプリケーションでの使用を前提として、トランシーバーICの評価を行いました。図4に示したのは、波形発生器を評価するための構成です。評価にあたっては、すべての波形発生器に同じデジタル・データを適用します。また、NCOの位相を調整することにより、すべてのチャンネルに対するキャリブレーションを実施します。8つの信号を結合するコンバイナにおいて、RF信号が同相で、コヒーレントに結合されるようにします。
次に、LOとNCOをすべて同じ周波数に設定した場合と、LOとNCOの周波数にオフセットを加えた場合のスプリアスを比較するためのテスト・データを示します。使用したトランシーバーICは、2つのチャンネルで1つのLOを共有します(図1)。そのため、8個のRFチャンネルに対し、LOの周波数が4種類存在することになります。
図5と図6は、トランシーバーのNCOとLOをすべて同じ周波数に設定して取得したものです。この場合、イメージ、LOリーク、3次高調波から生成されるスプリアスは、すべてのチャンネルで同じ周波数になります。図5は、個々の送信出力をスペクトラム・アナライザで測定したものです。一方、図6は結合後の出力を測定した結果です。このテストでは、搬送波を基準とするdBcを単位として測定を行っています。測定結果を見ると、イメージとLOリークのスプリアスには改善が見られます。しかし、3次高調波は改善されていません。一連のテストの結果から、3次高調波はチャンネル間で必ず相関を持つ、イメージは必ず相関を持たない、LOリークについては起動時の条件によって相関の状態が異なる、ということがわかりました。図3(a)では、これらを反映して、3次高調波に対してはコヒーレントな和、イメージに対しては非コヒーレントな和、LOリークに対しては部分的にコヒーレントな和と表現しています。
次に、トランシーバーのLOをすべて異なる周波数に設定しました。また、NCOについては、信号がコヒーレントに結合されるように、周波数と位相の調整を行いました。そのようにして得られたのが、図7と図8に示したスペクトルです。この場合、イメージ、LOリーク、3次高調波から生成されるスプリアスはすべて異なる周波数になります。図7は、個々の送信出力をスペクトラム・アナライザで測定したものです。一方の図8は、結合後の出力を測定した結果です。このテストでも、搬送波を基準とするdBcを単位として測定を行っています。イメージ、LOリーク、3次高調波がノイズとして拡散されるようになり、チャンネルの結合時にはすべてのスプリアスに改善が見られます。
この例のように、ごく少数のチャンネルを結合する場合、スプリアスは相対レベルで20log(N)だけ改善します。これは、スプリアスは全く結合されず、信号成分がコヒーレントに結合されて20log(N)だけ改善されるからです。実用的なアレイは大規模で、はるかに多数のチャンネルが結合されるはずです。その場合の改善量は10log(N)に近づくと考えられます。その理由は2つあります。1つは、多数の信号を結合する場合、現実的には、各スプリアスが分離していると見なせるほど十分に拡散することはできないからです。例えば、変調帯域幅が1MHzであるとします。また、仕様では、1MHzの帯域幅でスプリアスの放射を測定すると定められているとしましょう。その場合、スプリアスを1MHz以上離して拡散するのが理想的です。それができない場合、1MHzの各測定帯域幅には、複数のスプリアス成分が含まれることになります。それぞれ周波数が異なるので、それらは非コヒーレントに結合し、1MHzの各帯域幅で測定されるスプリアス電力は10log(N)だけ増加します。しかし、どの1MHz帯域幅にも、すべてのスプリアスが含まれるというわけではありません。そのため、ここでのNは信号数のNよりも小さくなります。つまり、改善量は10log(N)ですが、Nが十分に大きく、測定帯域幅内に複数のスプリアスが配置されるならば、スプリアスの相関を排除しないシステムに対する絶対的な改善量は、10log(N)よりもさらに高くなります。つまり、dB単位で10log(N)と20log(N)の間の改善量が見込めるということです。もう1つの理由は、このテストでCW(連続波)信号を使用したことに起因します。現実の信号は変調されるので、信号の拡散が生じます。そのため、多数のチャンネルを結合するときに、スプリアスが重ならないようにするのは不可能です。重なったスプリアス信号には相関関係はなく、重複している領域において非コヒーレントに10log(N)だけ加算されます。
LO の周波数をすべてのチャンネルで同じ値に設定した場合、LO リークの成分については特筆すべきことがあります。LOリークは、2つの信号を加算する際に、アナログ変調器におけるLOのキャンセルが不完全であることに起因して発生します。振幅と位相の不均衡がランダムな誤差として現れる場合、LOリークの残余成分の位相もランダムになります。多数の異なるトランシーバーのLOリークは、周波数が全く同じであったとしても、非コヒーレントに10log(N)だけ加算されます。同じことは変調器のイメージ成分にも当てはまりますが、変調器の3次高調波には必ずしも当てはまりません。少数のチャンネルがコヒーレントに結合される場合、LOの位相が完全にランダムになる可能性は低いはずです。実際、測定結果からは相関の部分的な排除が行われたことが見てとれます。チャンネル数が非常に多い場合には、LOの位相はチャンネル間ではるかにランダムに分布するようになり、相関がない状態で加算されることが期待できます。
まとめ
LOとNCOの周波数にオフセットを加えた場合、SFDRの測定結果には、生成されたスプリアスがすべて異なる周波数にあることがはっきりと現れます。それらはコヒーレントには結合されず、チャンネルの結合時のSFDRは必ず改善されます。アナログ・デバイセズの最新のトランシーバーICでは、プログラミングによってLOとNCOの周波数制御が行えます。本稿で紹介した評価結果は、それらの機能をフェーズド・アレイのアプリケーションに適用できること、また、アレイのレベルのSFDRはシングルチャンネルの場合よりも確実に改善されることを示しています。