大規模 MIMO とビーム・フォーミング、5G を支える信号処理技術

はじめに

モバイル機器によるデータ通信については、常にさらなる高速化が求められます。しかし、ユーザーが密集する都市部では、使用可能な RF 帯域がすでに飽和状態に達しつつあります。そのため、ワイヤレス基地局との間で行われるデータの送受信を、より高い効率で実施できるようにしなければならないことは明らかです。

その効率改善の策として、1 つの手法に注目が集まっています。それは、多数のアンテナを備える基地局が、同じ周波数リソースを使用して、空間的に分散している複数のユーザー端末と同時に通信するというものです。つまり、この手法ではマルチパスの伝搬を活用します。通常、この技術は大規模 MIMO(Multiple Input, MultipleOutput)と呼ばれます。「大規模 MIMO とは、多数のアンテナによるビーム・フォーミングのことである」といった説明を耳にしたことがあるかもしれません。その場合、ビーム・フォーミングとは何なのかという疑問が生じるでしょう。

ビーム・フォーミングと大規模 MIMO の違い

ビーム・フォーミングには、「異なる人に異なる物を」といった意味があります。ビーム・フォーミングとは、特定の状況に応じてアンテナ・アレイの放射パターンを適応させるというものです。携帯電話の分野では、図1 に示すように、ユーザーがいる特定の方向に向けて一定のパワーを集中させることをビーム・フォーミングと呼ぶ人がたくさんいます。それに対し、ここで言うビーム・フォーミングとは、次のようなものになります。まず、各アンテナ素子で扱う信号の振幅と位相を相対的にシフトさせます。それにより、アンテナ・アレイからの出力信号を、特定の送受信角度に向けてコヒーレントに結合し、それ以外の信号は互いに打ち消し合うようにします。一般に、アレイとユーザーを含む空間環境のことは考慮しません。これが本当の意味でのビーム・フォーミングです。ただ、ここで説明したことも、ビーム・フォーミングの実装方法の 1 つにすぎません。

Figure 1
図 1 . 旧来のビーム・フォーミング

大規模 MIMO は、より広義にはビーム・フォーミングの一形態だと考えることができます。ただし、旧来のビーム・フォーミングとは大きく異なる点があります。大規模というのは、単に基地局のアンテナ・アレイを構成するアンテナの数がたくさんあるという意味です。MIMOというのは、アンテナ・アレイにより、同じ周波数リソースを使用して、空間的に分散している複数のユーザーに同時に対応することを指します。大規模 MIMO では、実際のシステムにおいて、アンテナとユーザー端末の間で送受信される信号が周囲の環境によるフィルタリングを掻いくぐらなければならないことも考慮されます。図 2 に示すように、信号は建物などの障害物で反射する可能性があります。その反射に伴って遅延や減衰が生じ、信号が到来する方向も変化します。アンテナとユーザー端末の間に直接的な見通し線が存在しない可能性さえあるのです。このような非直接的な伝送パスからの信号も、受信パワーとして有効に活用することが可能です。

Figure 2
図 2 . アンテナ・アレイとユーザーの間のマルチパス環境

複数のパスを活用するには、アンテナ素子とユーザー端末間の空間チャンネルの特性を評価する必要があります。一般に、その応答はチャネル状態情報(CSI: Channel StateInformation)と呼ばれます。CSI は、実質的に、各チャンネルと各ユーザー端末間の空間伝達関数の集合になります。この空間情報は、図 3 に示す行列 H の形で表現されます。次節では、CSI の概念と収集方法について説明します。CSI は、アンテナ・アレイで送受信されるデータのエンコードとデコードに使用されます。

Figure 3
図 3 . 大規模 MIMO システムの特性評価に必要なCSI

空間チャンネルの特性評価

わかりやすい例えとして、ある場所で浮かんでいる風船の破裂音(またはインパルス)を別の場所で録音するケースを考えます。図 4 に示した場所にあるマイクで録音された音は、この環境における風船とマイクの位置に固有の情報を含む空間インパルス応答になります。障害物に当たって反射した音には、直接パスからの音と比べると振幅が減衰しており、遅延も生じています。

Figure 4
図 4 . 空間チャンネルの特性評価の比喩的表現

この比喩的表現を、アンテナ・アレイとユーザー端末に拡張するには、図 5 に示すようにさらに多くの風船が必要になります。各風船とマイクの間のチャンネルについて特性評価を行うには、各風船を破裂させるタイミングをずらさなければなりません。そうしなければ、異なる風船からの反射音が重なってマイクに録音されてしまうからです。また、図 6 に示すように、逆方向の特性評価も行う必要があります。この場合、ユーザー端末の位置で風船を破裂させた時に、全ての録音を同時に行うことができます。明らかに、こちらの方が短時間で作業を完了することができます。

Figure 5
図 5 . ダウンリンク・チャンネルの特性評価の比喩的表現
Figure 6
図 6 . アップリンク・チャンネルの特性評価の比喩的表現

RF の分野では、空間チャンネルの特性評価にパイロット信号が使用されます。アンテナとユーザー端末の間のOTA(Over-the-Air)伝送チャンネルには可逆性があります。つまり、両方向で同一のチャンネルを使用できます。これは、時分割複信(TDD)モードで動作するシステムが備える特徴です。周波数分割複信(FDD)モードとは対照的な性質だと言えます。TDD モードでは、アップリンクとダウンリンクの伝送で同じ周波数リソースが使用されます。可逆性があるということは、一方向のチャンネルだけ特性を評価すれば済むことになります。その場合には、当然のことながらアップリンクを選択します。ユーザー端末からパイロット信号を 1 つだけ送信し、それを全てのアンテナ素子で受信するだけでよいからです。チャンネル推定の複雑さは、アレイに含まれるアンテナの数ではなく、ユーザー端末の数に比例します。この性質は非常に重要です。なぜなら、ユーザー端末は移動する可能性があるため、チャンネル推定を頻繁に実行しなければならないからです。アップリンク側を使って特性評価を行うことには、もう 1 つの大きなメリットがあります。それは、チャンネル推定と信号処理という負荷の大きい作業が、全てユーザー側ではなく基地局側で行われるということです。

Figure 7
図 7 . 各ユーザー端末は直交するパイロット信号を送信

ここまで、CSI の収集という概念について説明してきました。では、この情報をどのように信号に適用すれば、空間多重化が可能になるのでしょうか。それには、まずアンテナ・アレイから送信されるデータをプリコードするためのフィルタを、CSI をベースとして設計します。そのフィルタにより、ユーザー端末の位置でマルチパスの信号がコヒーレントに結合されるようにします。また、このフィルタは、異なるユーザーからのデータ・ストリームの検出に向けて、アンテナ・アレイの RF パスで受信したデータを線形的に組み合わせるために使用することもできます。次節ではこの処理について詳しく説明します。

大規模 MIMO を実現するための信号処理 

前節では、CSI(行列 H 表されます)の推定方法について説明しました。検出行列とプリコーディング行列は行列 H に基づいて計算されます。その計算方法は数多く存在します。それらの中から、本稿では線形的な手法を取り上げることにします。線形のプリコーディング/検出手法の例としては、最大比(MR: Maximum Ratio)、ゼロ・フォーシング(ZF: Zero Forcing)、最小平均二乗誤差(MMSE: Minimum Meansquare Error)が挙げられます。本稿では、CSI からプリコーディング/検出用のフィルタを導出するための方法について、詳細な説明は行いません。各手法における最適化の基準とその利点/欠点について説明することにします。より詳しくは、稿末の参考文献をご覧ください123

図 8 と図 9 は、上記 3 つの線形手法について、アップリンク/ダウンリンクにおける信号処理の内容を示したものです。プリコーディングについては、アンテナ・アレイ全体でパワーを正規化するためにスケーリング用の行列を使用することがあります。ここでは、内容を簡素化するために同行列は省略しています。

Figure 8
図 8 . アップリンクの信号処理。H は共役転置を表します。
Figure 9
図 9 . ダウンリンクの信号処理。T は転置、* は共役を表します。

最大比用のフィルタは、S/N 比の最大化を目的としたものです。信号処理の観点からは最も単純な手法だと言えます。検出/プリコーディング用の行列は、CSI の行列H の共役転置または共役行列になるからです。ただし、この手法には、ユーザー間干渉が無視されるという大きな欠点があります。

ゼロ・フォーシングによるプリコーディングは、ユーザー間干渉の最小化を目的としたものです。検出/プリコーディング用の行列は、CSI の行列の疑似逆行列です。疑似逆行列の計算は、最大比の複素共役行列の計算よりも負荷の大きい処理になります。また、干渉の最小化に注力する代償として、ユーザーが受信するパワーは低下します。

MMSE では、信号の増幅と干渉の低減の間で適切なバランスをとることができます。一般に、信号処理が複雑になればなるほどコストがかかります。MMSE では、ノイズの共分散と送信パワーの間のバランスを最適化するために、正規化項(図 8、図 9 の β )を導入します。この手法は、正規化ゼロ・フォーシング(RZF: Regularized ZeroForcing)と呼ばれることもあります。

プリコーディング/検出の手法は他にもありますが、主要な線形手法は上述した 3 つです。また、DPC(Dirty Paper Coding) や逐次干渉除去(SIC : Successive Interference Cancellation)など、この問題に対して適用できる非線形の信号処理手法も存在します。これらの手法は優れた能力を発揮しますが、実装が非常に複雑になります。一般的には、上述した線形手法により、アンテナ数の多い大規模 MIMO にも十分に対応できます。プリコーディング/検出に向けて選択すべき手法は、演算用のリソース、アンテナの数、ユーザーの数、そしてシステムが配置される特定の環境がどれだけ多様に変化するのかということに依存します。例えば、アンテナの数がユーザーの数よりもはるかに多い大規模アンテナ・アレイを使用する場合、おそらく最大比を選択することでも十分な効果が得られます。

現実のシステムが大規模 MIMO にもたらす影響

大規模 MIMO を現実の運用環境に実装する場合、実用という観点からの考察が必要になります。例として、各 32系統の送信チャンネルと受信チャンネルで構成され、3.5GHz 帯で使用されるアンテナ・アレイを考えます。64 系統の RF シグナル・チェーンがあり、アンテナの間隔は対応周波数に基づいて約 4.2 cm となっています。つまり、小さなスペースに多数のハードウェアが密集することになります。消費電力も多いので、温度の問題も懸念事項です。アナログ・デバイセズのトランシーバ IC は、このような問題に対して非常に有効です。後ほど、そのような製品の例である「AD9371」について詳しく説明します。

先述したように、システムの可逆性を利用すれば、チャンネル推定と信号処理によるオーバーヘッドが大幅に軽減されます。図 10 は、実際のシステムのダウンリンク・チャンネルの例を示したものです。OTA チャンネル(H)、基地局側の送信 RF パス(TBS)のハードウェア、ユーザー側の受信 RF パス(RUE)のハードウェアという3つの部分で構成されています。アップリンクはこれを逆にしたものになります。すなわち、アップリンクには、基地局側の受信 RF パス(RBS)のハードウェアとユーザー側の送信 RF パス(TUE)のハードウェアが含まれます。可逆性は、OTA のインターフェースでは成立しますが、ハードウェアのパスでは成立しません。現実のRF シグナル・チェーンにより、トレースの不整合、RF パス間の同期のずれ、温度の変化に伴う位相ドリフトに起因する誤差がシステムに加わります。

Figure 10
図 10 . 現実のダウンリンク・チャンネル

RF パス間の遅延の問題は、RF パス上にある全ての局部発振器(LO)用 PLL に対して共通の同期リファレンス・クロックを使用し、JESD204B のベースバンド・デジタル信号に対して同期のとれた SYSREF を使用することによって緩和することができます。しかし、システムを起動する際には、RF パス間にいくらかの位相の不整合が生じます。この問題は、温度の変化に伴う位相ドリフトによってさらに増幅されます。そのため、システムを初期化する時だけでなく、その後も定期的にフィールドで校正する必要があります。それにより、複雑な信号処理は基地局だけで実施したり、アップリンクのみを対象としてチャンネルの特性評価を行ったりといった可逆性からのメリットを享受することができます。つまり、全般的に処理が簡素化され、基地局の RF パス(TBS とRBS)だけを考慮すればよくなります。.

このようなシステムの校正については、いくつかの方法が考えられます。1 つは、アンテナ・アレイの前に基準になるアンテナを慎重に配置し、それを使って受信と送信の両方の RF チャンネルを校正する方法です。しかし、アンテナ・アレイの前に基準アンテナを配置するということが、フィールドにおける実用的な方法であるかどうかは疑問です。そこで、アンテナ・アレイ内にある既存のアンテナ間の相互カップリングを校正用のメカニズムとして利用するという方法が 1 つの候補になります。実際、これであれば実現できる可能性があります。ただ、おそらく最も単純明快な方法は、基地局においてアンテナの前に受動カップリング・パスを追加することです。ハードウェアについては複雑さが増しますが、堅牢な校正メカニズムを実現できます。システムを完全に校正するためには、まず校正用に指定された 1 つの送信チャンネルから信号を送信します。次に、受動カップリング・パスを介し、全ての受信 RF パスで信号を受信します。その後、各送信 RF パスが順に送信する信号は、各アンテナの前にある受動カップリング・パスの部分で取得されます。それらは結合器に中継されたうえで、校正用に指定された受信パスに送信されます。一般に、温度の変化に伴う影響は緩やかなので、チャンネルの特性評価とは異なり、この校正はそれほど頻繁に行う必要はありません。

アナログ・デバイセズのトランシーバと大規模 MIMO

アナログ・デバイセズは、集積度の高い一連のトランシーバ IC 製品を提供しています。それらは、特に、RF シグナル・チェーンの実装密度を高める必要があるアプリケーションに適しています。AD9371 は、それぞれ 2 系統の送信パスと受信パス、オブザベーション・レシーバ、RF 帯の局部発振器用に 3 つの分数分周(フラクショナル N)型 PLL を集積した IC です。12 mm × 12 mmのパッケージを採用しており、他に類のない高い集積度が実現されています。そのため、複雑なシステムをコスト効率良くタイムリーに開発することができます。

AD9371 を複数使用したシステムの実装例を図 11 に示しました。同 IC を 16 個使用し、32 の送信系と32 の受信系を構成しています。クロック・ジェネレータ「AD9528」を 3 個使用することで、PLL 用のリファレンス・クロックと JESD204B の SYSREF をシステムに供給します。AD9528 は 2 段構成の PLL を内蔵しており、14系統の LVDS( 低電圧差動伝送)/HSTL( High-speedTransceiver Logic)出力を備えています。また、複数のデバイスの同期に使用される JESD204B の SYSREF を発生するための回路も内蔵しています。3 個の AD9528 は、ファンアウト・バッファを構成するように接続しています。1 つがマスター・デバイスとして機能し、その出力の一部をスレーブ・デバイスのクロック入力と SYSREF 入力に使用しています。図 11 には、受動カップリングによる校正メカニズムの例(緑色と橙色で示した部分)も含まれています。前節で説明したとおり、専用の送信/受信チャンネルを使用し、分割器/結合器を介して全ての送信/受信信号パスの校正が行われます。

Figure 11
図 11 . 3 2 系統の送受信チャンネルを備える大規模 MIMOシステム(無線ヘッド部)。
アナログ・デバイセズのトランシーバ IC である AD9371 を使用しています。

まとめ

大規模 MIMO による空間多重化は、携帯電話の通信空間を一新させる技術になる可能性があります。トラフィックの多い都市部において、通信の容量と効率を大幅に高める可能性を秘めているからです。マルチパス伝搬がもたらすダイバーシチを活用することにより、基地局と複数ユーザー間のデータ伝送を同時かつ同じ周波数リソースを使って行うことができます。基地局のアンテナとユーザーの間のチャンネルに可逆性があることから、複雑な信号処理は全て基地局で行い、チャンネルの特性評価はアップリンクだけで済ますことが可能です。アナログ・デバイセズの RadioVerse™ は、集積度の高いトランシーバ IC の製品ファミリーです。同ファミリーの製品を使用すれば、小さなスペースに RF パスを高い密度で実装することができます。このことから、同ファミリーの製品は、大規模 MIMO のアプリケーションに非常に適しています。

参考資料

1. Xiang Gao「Massive MIMO in Real Propagation Environments(現実の伝搬環境における大規模 MIMO)」 Lund University, 2016年

2. Michael Joham, Josef A. Nossek, and Wolfgang Utschick.「 Linear Transmit Processing in MIMO Communications Systems(MIMO 通信システムにおける線形送信処理)IEEE Transactions on Signal Processing, Vol. 53, Issue 8, Aug, 2005 年 8 月

3. Hien Quoc Ngo 「Massive MIMO: Fundamentals and System Desig(大規模 MIMO: その基本とシステム設計)」 Linköping University, 2015年

著者

Claire Masterson

Claire Masterson は、アナログ・デバイセズ リムリック事業所の通信システム・チームに所属するシステム・アプリケーション・エンジニアです。システムの実装、ソフトウェアの開発、アルゴリズムの開発を担当しています。ダブリン大学トリニティ・カレッジで工学分野の学士号と博士号を取得、2011 年にアナログ・デバイセズに入社しました。