はじめに
これまで、ICの分野では集積度を高めるためにトランジスタの微細化が継続的に進められてきました。それに伴い、A/Dコンバータ(ADC)で使用される電源電圧も徐々に低下してきました。その結果として、良好なダイナミック・レンジを維持するために、ADCの入力信号は差動形式で扱うようになりました。通常、そうしたADCは、低電圧の単電源と、電源の中央値付近のコモンモード入力をベースとして動作します。「LT1994」は、そうしたADC用のドライバとして利用可能なアンプICです。このアンプを使用すれば、シングルエンドから差動への変換や、増幅、コモンモード変換(コモンモードのレベルシフト)を実現できます。そのため、グラウンドを基準とする広帯域のシングルエンド信号も差動入力信号も扱えます。また、このアンプのパッケージは8ピンのMSOPまたはDFNであり、商用品として提供されている他の完全差動アンプとの間でピン互換性を確保することができます。
LT1994は、他の完全差動アンプと比べて優れた特徴を備えていると言えます。例えば、ノイズや歪みが小さいことに加え、レールtoレール出力に対応できます。また、2.5Vという低い電源電圧を使用した場合でも、グラウンドにまで及ぶ広い入力コモンモード範囲に対応することが可能です。このことから負電源は必要ありません。そのため、同アンプと差動入力型のADCの電源を共有した状態で両者を接続することができます。この特徴は非常に有用なものであり、システム・コストと消費電力の低減につながります。
LT1994の性能
LT1994を採用すればいくつかのメリットが得られます。1つは、グラウンドを基準とするシングルエンド/差動の信号を、VOCMピンを基準とする差動出力信号に変換/レベルシフトできることです。その方法を図1に示しました。この例では、グラウンドを基準とする5VP-Pのシングルエンドの入力信号を例にとっています。この信号は、ADCとLT1994の電源電圧よりも2.5V低い電圧までスイングします。それが、LT1994によって電源の中央値を基準とする差動信号に変換されます。この処理は、LT1994が内蔵する2つの帰還ループによって実現されます。2つの帰還ループとは、差動帰還ループとコモンモード帰還ループです。どちらのループも、オープン・ループ・ゲインは約100dBに達します。コモンモード帰還ループは、2つの出力の瞬時平均値をVOCMピンの電圧と等しい値に制御します。もう一方の差動帰還ループは、一般的なオペアンプの動作と同様に、加算ノードの電圧の差をゼロに制御する役割を果たします。その結果、次の式で表される差動出力が得られます。
なお、上記のとおり、両帰還ループはLT1994の内部に存在します。同アンプを使用する場合、負電源は不要であり、最小限の消費電力で最大限のダイナミック・レンジを得ることができます。各出力は、レールtoレールでスイングすることが可能です。入力換算電圧ノイズは3nV/√Hz(図2)であり、図1のようなアプリケーションにおいて、10MHzのノイズ帯域幅で96dB近くのS/N比を得ることができます。これは、ノイズ・フロアが同等でシングルエンド/レールtoレール出力のアンプと比べると、ダイナミック・レンジが6dB増加するということを意味します。表1に、LT1994の主要な仕様についてまとめました。
パラメータ | 代表値 |
3Vにおける電源電流 | 13.3mA |
入力換算電圧ノイズ(en) | 3nV/√Hz |
HD2(VINが2VP-P、1MHzの場合) | –94dBc |
HD3(VINが2VP-P、1MHzの場合) | –108dBc |
ゲイン帯域幅 | 70MHz |
スルー・レート | 65V/マイクロ秒 |
2Vのステップ信号に対する0.01%までのセトリング時間 | 120ナノ秒 |
完全差動型で信号を処理すれば、もう1つのメリットが得られます。グラウンド・ノイズや電源ノイズなどの干渉はコモンモード信号として現れますが、完全差動型のアンプでは、内部のマッチングや均衡化(バランス)の効果によってそれらが除去されます。このことは大きなメリットになります。電源電圧変動除去比(PSRR)や同相ノイズ除去比(CMRR)は、主に内部トランジスタのマッチングによって制限されます。一般に、それらの値は約100dBになります。
完全差動型のアーキテクチャを採用すれば、直線性が高まり、偶数次の高調波の除去が可能になります。以下、その仕組みについて確認してみましょう。ここでは、図1のようにシングルトーンの正弦波をLT1994に入力したとします。その場合、LT1994の出力は以下のようにテイラー展開によって表すことができます。
これらの式から、2つの出力の差であるVOUTは次のように表せます。
ご覧のとおり、偶数次の高調波はキャンセルされます。
図3は、図1のように回路を構成した場合の歪みと周波数の関係を示したものです。つまり、クローズドループ、ユニティ・ゲインで回路を構成した場合の特性を表しています。2VP-P、1MHzのシングルエンド入力に対し、2次高調波歪みは-94dBc、3次高調波歪みは-108dBcとなっています。
LT1994の歪み性能を最大限に引き出すには、対称性と均衡性に十分に留意し、プリント回路基板のレイアウトを慎重に実施する必要があります。単電源のアプリケーションでは、高品質で等価直列抵抗(ESR)の小さい1µFと0.1µFの表面実装型コンデンサを用意します。それらを並列で使用し、短いパターンによって電源(V+とV-)の間に直接接続します。また、V-は低インピーダンスのグラウンド・プレーンに直接接続してください。両電源のアプリケーションでは、高品質でESRの小さい0.1µFの表面実装型バイパス・コンデンサを追加します。各電源は、個別に低インピーダンスのグラウンド・プレーンにバイパスする必要があります。
ADCとの接続
ADCでサンプリング処理を行うと、それに伴うグリッチが生じます。ADCのフロント・エンド部には、サンプリング・コンデンサのスイッチが実装されています。オペアンプとサンプリング・コンデンサの間で電荷が転送されるときに、オペアンプの出力が瞬間的に“短絡”することによってグリッチが発生するということです。オペアンプは、入力信号が有効になるアクイジション期間が終了する前に、この負荷トランジェントから回復してセトリングを完了しなければなりません。
通常、LT1994においては、2Vの入力ステップ信号に対してセトリングする場合と比べると、この周期的な負荷インパルスに対してセトリングするために要する時間は短くなります。図4の回路では、LT1994とADCの間に小さなRCフィルタ回路を配置しています。その目的は、ADCのサンプリング処理に伴うチャージ・インジェクションの吸収を促進することです。このデカップリング回路で使用するコンデンサは、サンプリング処理の最中に高い周波数での蓄電を可能にする電荷の貯蔵庫として機能します。一方、デカップリング回路の2つの抵抗は、ADCからの電荷のキックバックを減衰する役割を果たします。
任意のADCに対してRC時定数を選定する作業には試行錯誤が伴います。デカップリング回路の抵抗値が大きすぎて、セトリング時間が不十分になったとします。その場合、ADCのダイナミックな入力インピーダンスとデカップリング抵抗の間に分圧器が形成されます。一方、抵抗値が小さすぎると、サンプリング処理に伴って生じる負荷トランジェントを適切に減衰させることができません。結果として、セトリングに必要な時間が長くなる可能性があります。RC時定数を選定する際には、以下に示す一般的な手順に従うとよいでしょう。
まず、25Ωの抵抗を各出力に配置して、ADCの入力容量をデカップリングします。次に、アクイジション期間に所望の精度でセトリングできるようにするための時間をオペアンプに与えられるよう、(サンプリング用の容量値を考慮しつつ)容量の値を選択します。16ビットのアプリケーションの場合、通常はRC時定数として最小で11という値が必要です。また、高品質の誘電体を採用したコンデンサを選択する必要があります(C0G特性の積層セラミック・コンデンサなど)。前掲の図4の回路は、3Vの単電源で動作します。LT1994は、14ビット/2.8MHzでサンプリングを行うADC「LTC1403A-1」を駆動します。図5は、同ADCの出力サンプル(4096ポイント)にFFT(Fast Fourier Transform)を適用した結果です。図に示したように、スプリアスフリー・ダイナミック・レンジ(SFDR)は約93dBとなります。これは、LT1994ではなくADCの非直線性によって制限された結果です(LTC1403A-1のSFDRは、1.4MHzにおいて約86dBと規定されています)。この結果は、LT1994が問題なくセトリングし、LTC1403Aのアクイジション時間(39ナノ秒)に対応できていることを表しています。
2.5MHzに対応する完全差動型の2次バターワース・フィルタ、3Vの単電源で動作
図6に示したのは、LT1994を使用して構成したバターワース型のアクティブ・フィルタです。アンチエイリアシング(折返し誤差防止)フィルタとしての利用に適したものであり、単電源で動作します。帯域幅は2.5MHzで、低ノイズであることを特徴とします。50kHzの差動出力におけるスポット・ノイズは約7nV/√Hzです。25MHzにおけるアンプの阻止帯域減衰量は約40dBとなります。図7に、このフィルタの周波数応答を示しました。このフィルタの場合、低周波領域のゲインは抵抗R2と同R1の比で決まります。カットオフ周波数は、コンデンサC1と同C2の値を増減させることによって簡単に変更できます。
抵抗を使わずに構成したゲイン2のアンプ
図8に示したのは、LT1994を使用して構成したもう1つの回路例です。これを使用すれば、入力信号と同じ振幅で同じ位相の信号と同じ振幅で逆位相の信号を出力することができます。この回路には、入力インピーダンスが高いというメリットがあります。入出力間の伝達関数は、以下の式で表されます。
VOUT = 2 • VIN
この回路は十分にうまく機能します。ただ、このような構成の回路には、差動パスの性能よりもコモンモード・パスの性能が強く反映されます。そのため、出力では差動ノイズ(3nV/√Hz)が小さいというメリットが活かせません。15nV/√Hzのコモンモード・ノイズが2倍(30nV/√Hz)に増幅されて出力されます。その原因は、LT1994の各入力/出力に対応する2つの帰還係数がマッチングしていないことにあります。実際、出力から入力への2つの帰還パスがマッチングしていない場合、そのミスマッチの度合いに応じ、出力においてコモンモード・ノイズが差動ノイズに変換されます(以下参照)。
ここでβF1とβF2は、各出力から各入力へのパスの帰還係数です。
まとめ
LT1994は高性能の差動アンプです。低ノイズ、低歪みであり、単電源で動作するADC用のドライバ・アンプとして理想的な製品だと言えます。その出力はレールtoレールに対応します。また、歪みが小さく、入力換算電圧ノイズはわずか3nV/√Hzです。コモンモード範囲はグラウンドまでに及び、最大限のダイナミック・レンジが得られます。加えて、負電源が不要であることから、単電源のシステムを構成することが可能です。それにより、コストと消費電力を低減することができます。