はじめに
遠隔地にあり、プローブを差し込むことが事実上不可能な物質の組成分析を行いたいケースを考えます。その場合、高周波に対応するトランシーバを使用することが実用的な手段である可能性があります。この方法であれば、有害な物質に直接触れることによる悪影響を回避しつつ、物質の体積分率を正確に定量化できるはずです。その際、直交復調器を使用することにより、振幅と位相のずれを測定するための確実かつ新たな方法を実装することが可能になります。本稿で紹介するレシーバ用のシグナル・チェーンでは、広帯域に対応する直交復調器「ADL5380」、消費電力と歪みが極めて少ない完全差動型のA/Dコンバータ(ADC)用ドライバ「ADA4940-2」、「PulSAR®」ファミリーのADCである「AD7903」を使用します。AD7903は差動型のデュアルADCであり、分解能は16ビット、サンプル・レートは1MSPSです。アナログ・デバイセズ(ADI)が提供するこれらのICを使用することにより、低コストで安全な動作を保証しつつ、正確なデータを取得することが可能になります。
図1に示したレシーバにおいて、連続波の信号が、解析の対象となる物質を介して送信(Tx)アンテナから受信(Rx)アンテナへと送信されます。受信信号は元の送信信号と比べて減衰していることに加え、位相もずれています。この振幅の変化と位相のずれを利用することで、媒体の組成を判定することができます。
図2に示すように、振幅と位相のずれは、成分の透過率と反射率との間に直接的な相関を持ちます。例えば、油、ガス、水のフローの場合、誘電率、損失、拡散性は、水では高く、油では低く、ガスでは非常に低くなります。
レシーバのサブシステムの実装
図3に示したレシーバのサブシステムでは、振幅と位相を正確に測定するためにRF信号をデジタル・データに変換します。そのシグナル・チェーンは、直交復調器、差動型のデュアル・アンプ、SAR方式で差動型のデュアルADCで構成されています。この回路の主な目的は、広いダイナミック・レンジによって、RF入力の振幅と位相を高い精度で測定することです。
直交復調器
直交復調器は、同相(I:in-phase)信号と、位相が90°異なる直交(Q:quadrature)信号を出力します。I信号とQ信号はベクトル量なので、三角関数を使用することによって受信信号の振幅と位相のずれを計算することができます(図4)。局部発振器(LO)の入力は元の送信信号です。一方、RF入力は受信信号です。直交復調器は、両信号を受け取り、和と差の項を生成します。2つの信号は周波数がまったく等しい(ωLO = ωRF)ので、高い周波数の項はフィルタリングされ、差の項はDCに現れます。受信信号の位相ϕRFは、送信信号の位相ϕLOとは異なります。この位相のずれ(ϕLO-ϕRF)は媒体の誘電率に起因するものであり、物質の組成の判定に役立ちます。
現実のI/Q復調器には、直交位相誤差、ゲインの不整合、LOからRFへのリークといった面で不完全さがあります。それらのすべてが復調後の信号品質に影響を及ぼす要因になり得ます。復調器を選択する際には、まずRF入力周波数の範囲、振幅の精度、位相の精度の要件を明らかにします。
ADL5380は5Vの単一電源で動作する直交復調器です。400MHz~6GHzのRF/IF入力周波数に対応し、レシーバのシグナル・チェーンには理想的です。電圧変換ゲインが5.36dBになるよう構成を行うと、その差動I/Q出力により500Ωの負荷を2.5Vp-pで駆動することができます。また、同製品は900MHzにおいて、NF(ノイズ指数)が10.9dB、IP1dB(1dB圧縮ポイント)が11.6dBm、IIP3(3次入力インターセプトポイント)が29.7dBmという性能により、卓越したダイナミック・レンジを実現しています。加えて、0.07dBの振幅精度と0.2°の位相精度により優れた復調精度を達成します。高度なSiGeバイポーラ・プロセスで製造されており、4mm×4mm、24リードのLFCSPで提供されています。
高精度のADCとドライバ・アンプ
ADC用のドライバ・アンプであるADA4940-2は、優れたダイナミック性能を備えています。出力コモン・モードを調整可能であることから、分解能の高いSAR方式のデュアルADCに対して理想的です。5Vの単一電源で動作し、コモン・モード電圧が2.5Vの場合に±5Vの差動出力を供給可能です。ゲインを2(6dB)に構成すると、ADCをフルスケール入力で駆動することができます。RCフィルタ(22Ω/2.7nF)を使用することにより、ノイズを抑えるとともに、ADCの入力部における容量性DAC(D/Aコンバータ)からのキックバックを低減することが可能になります。ADI独自のSiGe相補型バイポーラ・プロセスで製造されており、4mm×4mm、24リードのLFCSPで提供されています。
逐次比較型のデュアルADCであるAD7903は、フルスケールにおけるゲイン誤差が±0.006%、オフセット誤差が±0.015mVという優れた精度を実現しています。2.5Vの単一電源で動作し、1MSPS動作における消費電力はわずか12mWです。分解能の高いADCを使用する主な目的は、入力信号のDC振幅が小さい場合でも±1°の位相精度を確保できるようにすることです。このADCが必要とする5Vのリファレンスは、低ノイズのリファレンスIC「ADR435」によって生成します。
図5に示すように、「ADL5380-EVALZ」、「EB-D24CP44-2Z」、「EVAL-AD7903SDZ」、「EVAL-SDP-CB1Z」の各評価キットを使用して、レシーバのサブシステムを構築しました。回路で使用するコンポーネントは、このサブシステムにおける相互接続用に最適化されています。RFとLOの各入力信号は、位相がロックされた2つの高周波入力源によって供給します。
表1は、レシーバのサブシステムを構成する各ICの入出力電圧レベルをまとめたものです。復調器のRF入力における11.6dBmの信号によりフルスケールに対して-1dBの範囲内でADCへの入力が生成されます。この表では、ADL5380の負荷が500Ω、変換ゲインが5.3573dB、電力ゲインが-4.643dB、ADA4940-2のゲインが6dBという条件を前提にしています。以下のセクションでは、このレシーバのサブシステムに対する校正処理とその結果得られる性能について説明します。
表1. レシーバのサブシステムを構成する各ICの入出力電圧レベル
RF入力 (dBm) |
ADL5380の出力 | AD7903の入力 (dBFS) |
|
(dBm) | (V p-p) | ||
+11.6 | +6.957 | 4.455 | –1.022 |
0 | –4.643 | 1.172 | –12.622 |
–20 | –24.643 | 0.117 | –32.622 |
–40 | –44.643 | 0.012 | –52.622 |
–68 | –72.643 | 466µ | –80.622 |
レシーバのサブシステムにおける誤差の校正
レシーバのサブシステムでは、オフセット、ゲイン、位相が主な誤差要因になります。
IチャンネルとQチャンネルそれぞれの差動DC振幅には、RF信号とLO信号の相対位相に依存する三角関数で表される関係があります。IチャンネルとQチャンネルの理想的なDC振幅は、以下のようにして計算できます。
(3) |
(4) |
位相を極座標上で変化させると、理想的にはいずれかの場所で同一の電圧が生成されます。例えば、I(コサイン)チャンネルの電圧は、+90°または-90°位相がずれても同一であるはずです。しかし、実際にはRFとLOの相対位相とは関係なく一定の位相シフト誤差が生じます。そのため、サブシステムのチャンネルは、同じDC振幅を生成するはずの入力位相に対して異なる振幅を生成します。図6、図7はその様子を示したものです。ご覧のとおり、入力が0Vのときに2つの異なる出力コードが生成されていることがわかります。ここで、-37°という位相のずれは、PLL(Phase Locked Loop)を備える実際のシステムで想定されるよりもかなり大きな値です。このずれにより、+90°が実際には53°として現れ、-90°が-127°として現れています。
補正をおこなうことなく、-180°~+180°の範囲において10°のステップで結果を収集すると、図6、図7に示すような楕円状の結果が得られます。この誤差の原因は、システムで追加される位相シフトの量を特定することによって説明することができます。表2からは、伝達関数の全体にわたってシステムの位相シフト誤差が一定であることがわかります。
表2. レシーバのサブシステムにおける位相シフトの測定結果(RF入力振幅が0dBmの場合)
IRFとLOの入力位相のずれ | Iチャンネルの平均出力コード | AQチャンネルの平均出力コード | Iチャンネルの電圧 | Qチャンネルの電圧 | 位相の測定値 | レシーバのサブシステムにおける位相シフトの測定 |
–180° | –5851.294 | +4524.038 | –0.893 | +0.690 | +142.29° | –37.71° |
–90° | –4471.731 | –5842.293 | –0.682 | –0.891 | –127.43° | –37.43° |
0° | +5909.982 | –4396.769 | +0.902 | –0.671 | –36.65° | –36.65° |
+90° | +4470.072 | +5858.444 | +0.682 | +0.894 | +52.66° | –37.34° |
+180° | –5924.423 | +4429.286 | –0.904 | +0.676 | +143.22° | –36.78° |
システムの位相誤差の校正
ステップ・サイズが10°の場合、図5のシステムにおける位相シフト誤差の測定値は平均で-37.32°でした。これに追加される位相シフトの量がわかれば、サブシステムにおける調整後のDC電圧を計算することができます。変数ϕPHASE_SHIFTは、システムで観測される追加の位相シフトの平均値です。位相を補償した後のシグナル・チェーンによって生成されるDC電圧は、次のようにして計算できます。
(5) |
(6) |
式(5)、(6)によって、与えられた位相の設定に対する入力電圧の目標値が得られます。それによりサブシステムを線形化し、オフセット誤差とゲイン誤差を補正することができます。図6と図7には、線形化を適用後のIチャンネルとQチャンネルの結果も示してあります。また、各図には、データ集合に対する線形回帰によって得られた最良適合直線も示しています。この直線は、変換用の各シグナル・チェーンのために、測定をベースとして取得したサブシステムの伝達関数です。
(5) |
(6) |
システムのオフセット誤差とゲイン誤差の校正
レシーバのサブシステムにおいて、各シグナル・チェーンのオフセットは、理想的には0LSBです。しかし、IチャンネルとQチャンネルのオフセットの測定値はそれぞれ-12.546LSBと22.599LSBでした。最良適合直線の勾配は、サブシステムの勾配を表しています。サブシステムの理想的な勾配は、次のようにして計算できます。
(7) |
図6と図7の結果から、IチャンネルとQチャンネルの勾配の測定値はそれぞれ6315.5と6273.1であることがわかります。これらの勾配を調整し、システムのゲイン誤差を補正する必要があります。ゲイン誤差とオフセット誤差を補正することによって、式(1)によって計算された信号の振幅を、理想的な振幅と一致させます。オフセットの補正に使用する値は、オフセット誤差の測定値の符号を逆にするだけです(以下参照)。
(8) |
ゲイン誤差の補正に使用する係数は以下のとおりです。
(9) |
レシーバにおける変換結果は、以下のようにして補正することができます。
(10) |
サブシステムの校正後のDC入力電圧は、次のようにして計算できます。
(11) |
式(11)をIチャンネルとQチャンネルの両方に適用し、サブシステムの各シグナル・チェーンで認識されるアナログ入力電圧を計算します。このようにして完全に調整されたI/Qチャンネルの電圧は、個々のDC信号振幅によって定義されたRF信号振幅の計算に使用されます。この完全な校正処理の精度を評価するために、補正後の結果を、位相シフト誤差が存在しない場合に復調器出力で生成される理想的なサブシステムの電圧に変換してみます。その変換は、先ほど計算したDC振幅の平均値に、各位相の測定値から、計算によって得られた位相シフト誤差を差し引いた値の三角関数値を乗算することによって行います。計算式は以下のようになります。
(12) |
(13) |
ここで、ϕPHASE_SHIFTは、先ほど計算した位相誤差です。校正後の平均振幅は、式(1)によって得られるDC振幅に対してオフセット誤差とゲイン誤差を補償した結果です。表3に、RF入力振幅が0dBmの条件において、目標とする複数の位相入力値に対して校正処理を施した結果を示しました。式(12)と式(13)による計算結果は、本稿で示した方法によって振幅/位相を測定する任意のシステムに、補正係数として組み込むことができます。
レシーバのサブシステムの評価結果
表3. 目標とする位相入力値に対して得られた結果(RF入力振幅が0dBmの場合)
目標とする位相 | 完全に補正されたIチャンネルの入力電圧 | 完全に補正されたQチャンネルの入力電圧 | 位相を完全に補正した結果 | 位相誤差の測定値(絶対値) |
–180° | –1.172 V | +0.00789 V | –180.386° | 0.386° |
–90° | –0.00218 V | –1.172 V | –90.107° | 0.107° |
0° | +1.172 V | +0.0138 V | +0.677° | 0.676° |
0.676° | +0.000409 V | +1.171 V | +89.98° | 0.020° |
+180° | –1.172 V | +0.0111 V | +180.542° | 0.541° |
図8は、-180°~+180°の範囲において10°ステップで位相誤差を測定した結果(絶対値の出現回数)をヒストグラムとして示したものです。これにより、1°以下の精度が得られていることがわかります。
任意の入力レベルに対して正確に位相を測定するには、LOに対するRFの位相シフト誤差ϕPHASE_SHIFTが一定である必要があります。位相誤差の測定値が目標とする位相ステップϕTARGETまたは振幅の関数として変化し始めると、本稿で示した校正処理の精度も低下し始めます。室温における評価結果からは、900MHzにおいて11.6dBmから約-20dBmまでのRF振幅に対して、位相シフト誤差は比較的一定であることがわかります。
図9に、レシーバのサブシステムのダイナミック・レンジと、それに依存する振幅に応じて追加される位相誤差の関係を示しました。これによれば、入力振幅が-20dBmよりも小さくなると、位相誤差に対する校正の精度が低下し始めることがわかります。システムを使用するユーザーは、シグナル・チェーンにおける誤差の許容レベルを定めて、許容可能な最小信号振幅を定義する必要があります。
図9に示した結果は、ADC用のリファレンス電圧を5Vとして収集したものです。このリファレンス電圧は、システムの量子化レベルが小さくても構わなければもっと低くすることができます。それに比例して小振幅の信号に対する位相誤差の精度は高まりますが、システムが飽和する可能性も高くなります。システムのダイナミック・レンジを広げるための別の手段としては、オーバーサンプリング機構を実装してADCのノイズフリーなビット分解能を高めるというものがあります。平均するサンプル数が2倍になるごとに、システムの分解能は1/2LSBだけ増加します。オーバーサンプリング比と増加する分解能の関係は、次の式で表されます。
(14) |
ここで、Nは増加するビット数です。オーバーサンプリングを行っていくと、ノイズの振幅によって、サンプル間でADCの出力コードがランダムに変化することがなくなる点に到達します。この状態に達したら、システムの有効分解能がそれ以上増加することはありません。システムによって測定される信号の振幅は少しずつ変化するので、オーバーサンプリングによる帯域幅の減少は大きな問題にはなりません。
AD7903の評価用ソフトウェアには、位相、ゲイン、オフセットという3つの誤差要因に対応するために、同ADCの出力結果の補正に適用可能な校正処理が用意されています。ユーザーは補正を行っていない状態でシステムからデータを収集し、本稿で紹介した校正係数を決定する必要があります。図10に評価用ソフトウェアのGUIを示しました。赤枠で囲まれている部分に、校正係数が表示されます。係数を計算したら、このGUIを使用して復調器の位相と振幅の結果を得ることができます。極座標には、観測されるRF入力信号が視覚的に表示されます。振幅と位相は、式(1)と式(2)によって計算されます。オーバーサンプリング比は、「Num Samples(サンプルの数)」ドロップダウンボックスを使用し、キャプチャ当たりのサンプルの数を調整することによって制御することができます。
まとめ
本稿では、まず遠隔からのセンシングにおいて生じる主要な課題について指摘しました。そのうえで、ADL5380、ADA4940-2、AD7903によって構成したレシーバのサブシステムを紹介しました。これを利用することで、物質の組成を高い精度と信頼性で測定することができます。そのシグナル・チェーンは、広いダイナミック・レンジを備え、900MHzにおいて、0°~360°の測定範囲に対して1°以下の高い精度を実現します。