数十年後の世界を想像してみてください。そこでは、健康に関する情報は、すべてセンサーを介して遠隔から監視/ 記録されます。また、家の中には、空気の質、温度、雑音、光度、気圧を測定するためのさまざまなセンサーが配備されています。得られたすべての情報に基づき、各人が自宅で最も幸せに過ごせるように、環境に関するパラメータがシステムによって調整されます。このような世界になった結果、もはや「病院」という単語も使われなくなくなっているかもしれません。アナログ・デバイセズは、そうした未来を実現することを目指しています。それに向けて、他とは一線を画す独自の観点から、互いに補完し合うセンサー、ソフトウェア、アルゴリズムを開発し、デジタル・ヘルス市場におけるシェアを拡大しています。
心拍数( HR : Heart Rate ) の監視は、多くのウェアラブル機器や医療機器が備える主要な機能です。そうした機器では、フォトプレチスモグラフィ( PPG:Photoplethysmography、光電式容積脈波記録法)信号の計測が一般的に行われます。PPG 信号は、皮膚に LED 光を当て、血流による反射光の強度の変化をフォトダイオードで計測することによって取得します。PPG 信号の波形は、動脈血圧(Arterial Blood Pressure)の波形に似ています。そのため、科学コミュニティでは、非侵襲的な心拍数の監視手段として利用できる可能性があり、PPG信号には大きな注目が集まっています。PPG 信号の周期性は、心調律(拍動のリズム)に対応します。PPG 信号から心拍数が推定できるのはそのためです。ただし、血液のかん流や周辺光の影響により、心拍数の推定精度は低下する可能性があります。測定精度に大きな影響を及ぼす可能性のある要因は、モーション・アーチファクト(MA: Motion Artifact)です1。そこで、MA の影響を排除するために多くの信号処理手法が提案されています。その 1 つが、アナログ・デバイセズのモーション除去/周波数トラッキングのアルゴリズムです。この手法では、PPGセンサーの近くに配置した 3 軸加速度センサーを利用します。モーションがない時に、心拍数を迅速かつ正確に予測してトラッキング・アルゴリズムに引き渡す、オンデマンドのアルゴリズムがあれば理想的です。アナログ・デバイセズは、ヘルスケア機能を備えた腕時計型機器(ヘルスケア・ウォッチ)に向けたプラットフォームを開発しました。そのプラットフォームは、図 1 に示したアルゴリズムをベースとしています。そのアルゴリズムの基盤には、MUSIC(Multiple Signal Classification)という周波数推定アルゴリズムがあります。図 1 のアルゴリズムは、MUSIC を改変し、腕で計測した PPG 信号を使用して、オンデマンドかつ高精度で心拍数を推定できるようにしたものです。
ヘルスケア・ウォッチが取得する PPG 信号
LED 光を皮膚に当てた時、血液や身体の組織はさまざまな量の光子を吸収します。その光子量の違いは、光検出器によって検知されます。光検出器は、血液の脈動を計測し、電流を出力します。その電流に増幅処理とフィルタリング処理を適用したうえで、解析に使用します。
図 2a に示したのは、交流(AC)成分と直流(DC)成分から成る一般的な PPG 信号の波形です。同信号の DC 成分は、組織、骨、筋肉で反射した光信号と、動脈と静脈の両方の平均血液量を表します。また、心拍の周期における収縮期と拡張期の間では、血液量に変化が生じます。PPG信号の AC 成分は、その変化を表します。AC 成分の基本周波数は心拍数に依存します。図 2b に示したのは、ヘルスケア・ウォッチによって取得した PPG 信号です。測光用フロント・エンド IC「ADPD107」を使って構成したヘルスケア・ウォッチについては、アナログ・ダイアログの別の記事で紹介しています。このヘルスケア・ウォッチは、複数のバイタル・サインを人間の腕で計測することを目的としたものです。PPG、ECG(Electrocardiogram、心電図)、EDA(Electrodermal Activity、皮膚電気活動)、加速度、温度の各信号を計測するためのセンサーを搭載しています。本稿では、PPG センサーと加速度センサーに焦点を絞って解説を進めます。
ここで、PPG 信号と動脈血圧信号の波形の類似性について詳しく見てみましょう。動脈血圧の信号波形は、左心室からの血液の脈出によって形成されます。全身の血管網に大きな圧力がかかり、いくつかの個所に到達することによって、動脈の抵抗と柔軟性が大きく変化して反射が生じます。1 つ目の反射個所は、胸部大動脈と腹部大動脈の間の分岐点です。ここで、一般的には収縮後期波として知られる最初の反射が生じます。2 つ目の反射個所は、腹部大動脈と総腸骨動脈の間の分岐点です。メインの波は再び反射し、1 つ目と 2 つ目の反射の間に、重複隆起と呼ばれる小さなくぼみが観測されます。それ以外にもいくつか小さな反射が生じますが、PPG 信号では平滑化された状態になります2。本稿のテーマは心拍数の推定です。これはPPG 信号の周期性にのみ依存します。このアルゴリズムが目的としていることを達成するうえで、PPG の正確な形態について考慮する必要はありません。
PPG 信号に対する前処理
PPG 信号が、周辺組織の血液のかん流不全や、モーション・アーチファクトの影響を受けやすいことはよく知られています1。心拍数の推定に向けて PPG 信号の解析を行うわけですが、その後続のフェーズでは、そうした影響を最小限に抑えるための前処理が必要になります。例えば、PPG 信号の高周波成分(電源などの影響)と低周波成分(毛細血管の密度、静脈の血液量の変化、温度のばらつきなどの影響)の両方を除去するためにはバンドパス・フィルタが必要になります。図 3a に示したのは、バンドパス・フィルタを適用した後の PPG 信号です。一連の信号品質の測定基準に基づき、オンデマンドのアルゴリズムに適した PPG 信号の最初のウィンドウを検索します。加速度データと PPG 信号を基に、モーションのないデータ・セグメントを検出できるかどうかを最初に確認し、その他の信号品質の測定基準に基づいた測定を実施します。3 軸の加速度データの絶対値が閾値を超えるようなモーションがあった場合、検出されたデータ・ウィンドウによる推定値はオンデマンドのアルゴリズムによって破棄されます。信号品質に関する次のチェックは、データ・セグメントの特徴を表す特定の自己相関を基盤にして行います。図 3b に、フィルタ処理を適用した後の PPG 信号における自己相関の一例を示しました。受容可能な信号セグメントの自己相関は、いくつかの性質を備えています。例えば、少なくとも 1 つの局所ピークを持つといった具合です。また、心拍数の最大値の候補に対応するピークは一定の数以下に収まります。さらに、局所ピークは時間差の増大に伴って徐々に小さくなります。自己相関は、30 bpm(Beats per Minute)~ 220 bpm の範囲内にある有意な心拍に対応する時間差に対してのみ計算されます。
十分な量のデータ・セグメントが品質のチェックに連続的に合格した場合、アルゴリズムの第 2 段階では、MUSIC法に基づくアルゴリズムを用いて心拍数を正確に抽出します。
オンデマンドで心拍数を推定するための MUSIC 法に基づくアルゴリズム
MUSIC 法とは、高調波信号のモデルを用いたサブ空間ベースの手法です3。これを利用することにより、高い精度で周波数を推定することできます。ここで必要としているのは、心拍数を推定するための分解能の高いアルゴリズムです。PPG 信号がノイズの影響を強く受けている場合、フーリエ変換がうまく機能しない可能性があります。また、フーリエ変換は時間領域のノイズを周波数領域全体に均等に分散します。その結果、推定の確からしさが抑制されます。フーリエ変換を利用して、大きなピークの近くにある小さなピークを検出するのは困難です4。このような理由から、ここでは、心拍数の周波数を推定するために MUSIC 法に基づくアルゴリズムを適用することにしました。MUSIC 法は、「ノイズのサブ空間は信号のサブ空間に直交するので、ノイズのサブ空間におけるゼロは信号の周波数を表す」という基本的な概念に基づいています。このアルゴリズムは、次のような流れで心拍数を推定するための処理を行います。
- 平均と線形トレンドをデータから除去する
- データの共分散行列を計算する
- SVD(Singular Value Decomposition、特異値分解)を共分散行列に適用する
- 信号のサブ空間の次数を計算する
- 信号またはノイズのサブ空間の疑似スペクトルを形成する
- MUSIC 法による疑似スペクトルのピーク値を検索し、心拍数の推定値とする
MUSIC 法では、SVD を適用し、周波数範囲の全体を対象としてスペクトルのピークを検索する必要があります。ここで、上記の手順を理解しやすくするために、いくつかの計算式を見ていきましょう。フィルタを適用した後の PPG 信号のウィンドウの長さを m とします。これを使い、PPG 信号は xm と表記することにします。Lは、与えられたウィンドウ内におけるフィルタ適用後のPPG 信号のサンプルの総数です。ここで、m ≦ L の関係があります。まず、サンプルの共分散行列を次のように形成します。
続いて、以下のようにして SVD をサンプルの共分散行列に適用します。
ここで、U、Λ 、Vは、それぞれ共分散行列の左固有ベクトル、固有値の対角行列、右固有ベクトルを表します。s と n の添字は、それぞれ信号とノイズのサブ空間を表します。先述したとおり、MUSIC 法に基づくこのアルゴリズムは、信号の品質チェックに合格しているという前提の下、心拍数を推定するように改変されています。そのため、前処理を適用した後の信号には、周波数成分としては心拍数に対応するものだけが含まれています。次に、モデルの次数にシングルトーンしか含まれていないと仮定し、信号とノイズのサブ空間を次のように形成します。
ここで、p = 2 はモデルの番号です。本稿では、有意の心拍数の範囲内にある周波数のみを考慮します。それにより計算量が大幅に削減され、アルゴリズムをシステムに組み込む際、リアルタイム対応の実装を実現することが可能になります。検索される周波数ベクトルは、次のように定義されます。
ここで、k は心拍数の対象周波数の範囲内にある周波数ビンです。L は、xm(t) 内のデータのウィンドウ長です。続いて、以下の疑似スペクトルにより、ノイズのサブ空間の固有ベクトルを基に MUSIC のピークを求めます。
ここでは、疑似スペクトルという語を使用しています。その理由は、この信号には正弦関数の成分が存在するものの、それは真のパワー・スペクトル密度ではないからです。図 4 に示した例は、5 秒間のデータ・ウィンドウに対し、MUSIC 法に基づくアルゴリズムを適用した結果です。ご覧のように、鋭いピークが 1.96 Hz にあります。このことから、心拍数は 117.6 bpm であるという結果が得られます。
MUSIC 法に基づくアルゴリズムによる心拍数の推定結果
このアルゴリズムの性能を確認するために、1289 のテスト・ケースで構成されるデータ・セット(データ 1)を対象としてテストを実施しました。データの取得を開始する際、被験者には起立した状態で静止してもらいました。表 1 は、MUSIC 法に基づくアルゴリズムを適用した結果です。心拍数の推定値がリファレンス(ECG)の2 bpm と 5 bpm の範囲内にあった割合と、50 パーセンタイル(中央値)と 75 パーセンタイルの範囲内にあった時間を示しています。表 1 の 最下行は、298 のテスト・ケースから成るデータ・セット(データ 2)に対するアルゴリズムの適用結果です。このテストでは、周期的なモーション(歩行、ジョギング、ランニングなど)があった場合の性能を評価しています。モーションが検出されたために信頼できないとしてデータが破棄されるか、あるいは、モーションがあったにもかかわらず心拍数が正しく推定された場合に、アルゴリズムは有効に機能したと見なされます。メモリの使用量については、バッファのサイズを 500(100 Hz で 5 秒間)、対象とする周波数範囲(30 bpm ~ 220 bpm)に対する 1 回の呼び出しにつき 2.83 サイクルという前提で計算すると、合計で約 3.4 kBの容量が必要になります。
測定基準 | 2 bpm の精度 | 5 bpm の精度 | 50 パーセンタイル | 75 パーセンタイル |
精度(データ 1) | 93.7% | 95.2% | 5.00 sec | 5.00 sec |
精度(データ 2) | 93.4% | 94.1% | 5.00 sec | 5.00 sec |
まとめ
MUSIC 法に基づくオンデマンドのアルゴリズムは、アナログ・デバイセズのヘルスケア事業部門がバイタル・サインの監視システム向けに提案している多数のアルゴリズムのうちの 1 つです。当社のヘルスケア・ウォッチは、演算コストが抑えられるという理由から、本稿で紹介したものとは異なるオンデマンドのアルゴリズムを採用しています。当社は、センサー(組み込み)とエッジ・ノードの両方において、データから有益な情報を抽出するためのソフトウェアとアルゴリズムを提供しています。また、最も重要なデータだけをクラウドに送信することによって、顧客やパートナーが任意の場所で意思決定を行えるようにしています。当社は、顧客に大きな成果をもたらすことができ、他社にはない計測技術の威力を発揮できるアプリケーションを選択しています。本稿で紹介したものは、当社が取り組んでいるアルゴリズムの一例にすぎません。当社は、センサーの設計に関する専門技術と、生体医学を対象として開発しているアルゴリズム(組み込みとクラウドの両方)を組み合わせることで、最先端のアルゴリズムとソフトウェアを世界中のヘルスケア市場に提供するための基盤を確立したいと考えています。
参考資料
1 Tamura、Toshiyo Tamura、Yuka Maeda、Masaki Sekine、Masaki Yoshida「Wearable PhotoplethysmographicSensors—Past and Present(ウェアラブルなフォトプレチスモグラフィック・センサー、その過去と現在) 」Electronics、Volume 3、Issue 2、2014年
2 R. Couceiro、P. Carvalho、R.P. Paiya、J. Henriques、I.Quintal、M. Antunes、J. Muehlsteff、C. Eickholt、C.Brinkmeyer、M. Kelm、C. Meyer「Assesment of CardiovascularFunction from Multi-Gaussian Fitting of aFinger Photoplethysmogram(指のフォトプレチスモグラムに対するマルチガウス・フィッティングにより、心臓の血管機能を評価する)」Physiological Measurement,Volume 36, Issue 9, 2015年
3 Petre Stoica、Randolph L. Moses「Spectral Analysisof Signals(信号のスペクトル解析)」Pearson PrenticeHall、2005年
4 Steven W. Smith「The Scientist and Engineer ’s Guideto Digital Signal Processing(研究者と技術者のためのデジタル信号処理ガイド)」California Technical Publishing、1997年
謝辞
このアルゴリズムの開発にあたり、貴重な知見と支援を提供してくれたアナログ・デバイセズの Sefa Demirtas、BobAdams、Tony Akl に感謝します。