はじめに
2019年、中国ではETC(Electronic Toll Collection:電子料金収受)が爆発的に普及しました。政府が普及を後押ししたことにより、ETCの車載器(OBU:On-board Unit)を搭載した車両は、わずか1年の間に8000万台から2億台にまで増加しました。それを受けて、ETCは高速道路だけでなく、都市部においても駐車場の料金の徴収や車両の情報の収集といった用途にも利用されるようになりました。現在、駐車場の料金の徴収や車両の情報の収集を担うシステムは、カメラをベースとして構成されています。そのため、都市部で使われるETCアプリケーションについては、カメラをベースとするシステムにETCの路側機(RSU:Roadside Unit)を組み込めるようにすることが望まれます。本稿では、アナログ・デバイセズのRFトランシーバー「AD9361」を使用して、ETC向けのRSUモジュールを実装する方法を紹介します。ターゲットとするアプリケーションは、中国のETCです。したがって、そのRSUモジュールは、中国の規格であるGB/T20851-2019(Electronic Toll Collection -- Dedicated Short Range Communication)1に準拠します。また、11cm×6cmとかなりコンパクトなので、カメラをベースとするシステムに容易に組み込めます。加えて、このRSUモジュールは、シンプルなRF計測器として構成することも可能です。そうすると、RSUモジュールの製造ラインにおいて、同モジュールのテストに使用する計測器として役立てることができます。つまり、製造ライン用に高価なRF計測器を購入する必要がありません。したがって、コストを大幅に削減できます。
規格の概要
GB/T 20851-2019では、ETC向けRSUの物理層に関する要件を定めています。その概要を表1、表2にまとめました。
パラメータ | 説明 | |
キャリア周波数 | チャンネル1:5830MHz チャンネル2:5840MHz |
|
占有帯域幅(OBW) | 5MHz以下 | |
周波数の許容誤差 | ±10 × 10-6 | |
EIRP | 33dBm以下 | |
不要輻射 | 30MHz~1GHz | -36dBm/100kHz以下 |
2400MHz~2483.5MHz | -40dBm/1MHz以下 | |
3400MHz~3530MHz | -40dBm/1MHz以下 | |
5725MHz~5850MHz* | -33dBm/100kHz以下 | |
その他の周波数:1GHz~20GHz | -30dBm/1MHz以下 | |
隣接チャンネル漏れ率 | -30dB以下 | |
変調方式 | ASK | |
変調度 | 70%~90% | |
データ符号化方式 | FM0 | |
ビット・レート | 256 kbps | |
ビット・レート精度 | ±100 × 10-6 | |
* キャリア周波数からの距離がキャリア帯域幅の2.5倍 |
パラメータ | 説明 | |
キャリア周波数 | チャンネル1:5790MHz チャンネル2:5800MHz |
|
周波数の許容誤差 | ±200 × 10-6 | |
レシーバーの感度 | -70dBm以下 | |
最大入力電力 | -20dBm以上 | |
同一チャンネル干渉除去比 | 10dB未満 | |
隣接チャンネル干渉除去比 | -20dB未満 | |
ブロッキング除去比 | -30dB未満 | |
受信帯域幅 | チャンネル1 | チャンネル2 |
最大:5787.5MHz~5792.5MHz | 最大:5797.5MHz~5802.5MHz | |
最小:5788.5MHz~5791.5MHz | 最小:5799.5MHz~5801.5MHz | |
変調方式 | ASK | |
変調度 | 70%~90% | |
データ符号化方式 | FM0 | |
ビット・レート | 512 kbps | |
ビット・レート精度 | ±100 × 10-6 |
AD9361をベースとするRSUモジュール
図1に、AD9361をベースとして構成したETC向けRSUモジュールのブロック図を示しました。図2に示したのは、これを実装したボードの概観です。
AD9361は、多様なアプリケーション向けに構成することが可能なトランシーバーICです。あらゆるトランシーバー機能を提供するために必要なRFブロック、ミックスド・シグナル・ブロック、デジタル・ブロックをすべて集積しています。
以下では、ETCシステムで使用するRSUアプリケーションにおいて非常に有用なAD9361の機能を紹介します。
まず、AD9361は、送信パスと受信パスの両方にプログラマブルな多相FIR(Finite Impulse Response)フィルタを搭載しています。このことは、デジタル領域のすべてのフィルタ処理は、FPGAを使うことなくAD9361の内部で実行できるということを意味します。そのため、リソース量が非常に少ない低コストのFPGAを選択することができます。また、例えば受信帯域幅の要件を満たしたいといった場合には、アナログ・デバイセズが提供するフィルタ・ウィザード・ツールを利用できます。同ツールを使用してFIRフィルタの応答を調整し、得られたフィルタ係数をAD9361にダウンロードするといったことが可能です。
また、AD9361は、DCXO(Digital Controlled Crystal Oscillator)機能を備えています。AD9361は、外付けの水晶発振器と組み合わせて使用するコンデンサを内蔵しています。このコンデンサをチューニングすることで、外付けの水晶発振器の周波数を非常に正確に制御することができます。一般的な実装では、RFに対応するPLLのN分周器を調整することで、RF周波数の許容誤差の要件を満たします。しかし、ビット・レート精度の要件を満たすかどうかは、水晶発振器の性能に依存します。しかも、通常はその性能を調整することはできません。それに対し、AD9361のDCXO機能を使えば、水晶発振器の発振周波数を調整することが可能です。それにより、ビット・レート精度と周波数の許容誤差の要件を同時に満たすことができます。また、RSUモジュールが動作温度範囲内で常に周波数の許容誤差とビット・レート精度の要件を満たすことを保証するために、水晶発振器の発振周波数の温度ドリフトを補償するために使用するルックアップ・テーブルを作成することが可能です。
加えて、AD9361は、レシーバー用のAGC(Automatic Gain Control)機能を備えています。低速AGCと高速AGCの2つのモードが用意されており、自動的にゲインが制御されます。つまり、レシーバーのゲインを制御するための機能をFPGAで実装する必要はありません。高速AGCモードは、ETC向けのRSUアプリケーションにおいて非常に有効に機能します。アップリンクのパイロット信号が数個到達したら、それらの開始シンボルを使ってゲインを安定して調整できるよう設計されています。
送信パスでは、FPGAからAD9361にトランスミッタのデジタル・ベースバンド信号が引き渡されます。AD9361の内部では、デジタル・ベースバンド信号に対してフィルタリングが施され、10.24MSPSから163.84MSPSへの補間処理が行われます。次に、D/Aコンバータ(DAC)によってデジタル・ベースバンド信号がアナログ・ベースバンド信号に変換され、その後にローパス・フィルタ(LPF)が適用されます。続いて、チャンネル1では5.83GHz、チャンネル2では5.84GHzのRF信号へのアップ・コンバージョンが実施されます。AD9361では、トランスミッタのRF部分にアッテネータが用意されています。それにより、トランスミッタの出力電力を80dB以上の範囲で制御することが可能です。なお、このアッテネータは、トランスミッタのリンク全体におけるゲインの温度補償を実施するためにも使用できます。続いて、トランスミッタの信号は、フロント・エンド・モジュール(FEM)内のパワー・アンプ(PA)に送られて更に増幅されます。その後、マイクロストリップで構成されたLPFを通過します。LPFでは、トランスミッタの不要輻射(spurious emission)の要件を満たすために高調波が除去されます。最後に、信号はアンテナに供給されます。図1のRSUモジュールでは、AD9361のトランスミッタにおいて減衰量を8dBに設定した場合、アンテナ・ポートにおいて最大29dBmの出力電力が得られます。AD9361の減衰機能は、高温時のゲインの減少と低温時のゲインの増大の両方を補償できるだけの十分なダイナミック・レンジを備えています。
一方、受信パスでは、アンテナからのRF信号がLPFを経て、FEM内部の低ノイズ・アンプ(LNA)に引き渡されます。続いて、バンドパス・フィルタ(BPF)を通過する際に帯域外の干渉信号が除去されます。受信パス内で更に増幅が行われ、アナログ・ベースバンド信号へのダウン・コンバージョンが実施されます。アナログ・ベースバンド信号はLPFを通過した後、A/Dコンバータ(ADC)によってデジタル・ベースバンド信号に変換されます。デジタル領域では、受信帯域幅の要件を満たすように信号にフィルタリングが施され、163.84MSPSから10.24MSPSへのデシメーションが行われます。最後に、AD9361からFPGAに信号が引き渡されます。
最後に、電源ソリューションについて触れておきます。図1のRSUモジュールへの入力電圧は5Vです。各回路ブロックの給電には「ADP5014」を使用しています。同製品は、高性能、低ノイズの降圧レギュレータを4つ集積しています。それぞれによって、5Vから3.3V、2.5V、1.8V、1.3Vへの変換を実施します。5Vの入力電圧とADP5014により、FEM、AD9361、FPGA、マイクロコントローラ(MCU)向けの4種の電源電圧が生成されます。
トランスミッタの評価結果
まず、AD9361を用いて構成したRSUモジュールのトランスミッタについて、規格で定められているすべてのテスト・ケースに即して評価を実施しました。その結果、このRSUモジュールは、かなりのマージンを確保した状態で規格を満足できることが確認されました。図3~図6に、いくつかの主要なテスト・ケースに関するスクリーン・ショットを示しておきます。
レシーバーの評価結果
次に、AD9361をベースとして構成したRSUモジュールのレシーバーについて、規格で定められているすべてのテスト・ケースに即して評価を実施しました。その結果、このRSUモジュールは、かなりのマージンを確保した状態で規格を満足できることが確認されました。レシーバーの感度については、符号化方式としてFM0、変調方式としてASKを適用したデータを信号発生器にダウンロードして評価を実施しました。復号化用のアルゴリズムはFPGAに実装しました。
RSUモジュールのレシーバーの感度は-95dBmであり、要件である-70dBmを大きく上回っています。図7は、-95dBmの入力信号に対するI/QデータのFFT結果とI/Qデータの振幅を示したものです。入力信号が-95dBmのレベルであっても、S/N比はかなり良好であることがわかります。
最大入力電力、受信帯域幅、同一チャンネル干渉除去、隣接チャンネル干渉除去、ブロッキング除去など、このRSUモジュールはすべての規格を満たしています。
シンプルなRF計測器
このRSUモジュールは、シンプルなRF計測器として構成することができます。そのように構成したRSUモジュールは、お客様の製造ラインにおいて、RSUモジュールやアンテナ・モジュールのテストに利用することが可能です。
AD9361は、2つのRFチャンネルを備えています。それらのうち1つは、ETC向けのRSUモジュールを実装するために使用します。もう一方のチャンネルは、オンボードの高指向性マイクロストリップ・カプラと共に、リターン損失のテストに使用されます。
モジュールのトランスミッタのテストでは、AD9361のRSSI(Receive Signal Strength Indicator)機能を利用します。この機能は、キャリブレーション後に0.25dBの精度を達成します。そのため、ETC向けRSUモジュールの出力電力のテストに十分に使用できます。
モジュールのレシーバーのテストに向けては、AD9361の出力電力を1つまたは2つの電力レベルでキャリブレーションすることができます。AD9361が備えるアッテネータを使用することにより、レシーバーのテストに向けて、広い範囲にわたる出力電力を正確に供給することが可能になります。
まとめ
AD9361を採用すれば、ETC向けRSUモジュールをコンパクトに設計することができます。アナログ・デバイセズは、同モジュールの完全なリファレンス設計を提供しています。そのリファレンス設計には、ハードウェアだけでなく、ファームウェアも含まれています。このRSUモジュールは、カメラをベースとするシステムに簡単に組み込むことができます。それだけでなく、ETC向けの標準のRSUモジュールとして単体で使用することも可能です。また、このモジュールは、GB/T 20851-2019規格が定めるすべての要件を満たしています。加えて、シンプルなRF計測器として構成することも可能です。そのように構成すれば、お客様の製造ラインで計測器として使用することができます。