筆者:ユヴァル・ズッカーマン(Yuval Zukerman)、エッジAIパートナーシップ担当ディレクター
2026年6月25日
月面に住居を建設するために、1000体の小型ロボットが協力して働く姿を想像してみてください。人間のオペレーターも、クラウド・サーバーも、そして失敗の余地もありません。各ロボットは、近くのロボットとワイヤレスで連携し、誰がいつ通信するか、メッセージがどの経路を通るか、そしてロボットが移動したり故障したりした際にどう対応するかについて、瞬時の判断を下す必要があります。
これは単なるSFの話ではありません。これは、アナログ・デバイセズ(ADI)による画期的な研究の原動力となっており、コンピューティング・エッジにおいて人工知能がどのように機能するかを再考するように私たちに求めるものです。
課題:思考速度が追いつかないスマート・プロトコル
低消費電力のワイヤレス・ネットワークには、タイム・スロット・チャンネル・ホッピング・プロトコルまたはTSCHという、知られざる強力な機能があります。このプロトコルは、綿密に調整されたダンスを作りだします。各デバイスは、干渉を避けるために周波数を切り替えながら、高精度なタイム・スロットに順番にメッセージを送信します。信頼性とエネルギー効率の面で非常に優れており、スマート・ファクトリから環境センサーに至るまで、あらゆる分野で活用されています。
しかし、問題があります。こうしたネットワークは、状況が変化すると機能しにくくなります。ロボットが移動したり、交通の流れが変わったり、ネットワーク・ノードが故障したりすると、従来のアルゴリズムでもタイム・スロットのスケジューリングを調整することは可能ですが、計算負荷が高く、mW単位の電力と数kBのメモリで動作するデバイスにとっては、あまりに負荷がかかり過ぎます。
これが、アナログ・デバイセズの研究者であるマルティナ・バルビ(Martina Balbi)が博士論文の一部として取り組んだ課題です。プロトコルを壊すことなく、これらの課題を克服するために、こうした小型デバイスにAIを導入することはできるだろうかという彼女の疑問は、一見単純に見えます。
知見:AIは独裁者ではなくアドバイザー
明確なアプローチは、プロトコルのスケジューリング・ロジックを完全に置き換えるよう、ニューラル・ネットワークに学習させることでしょう。スケジューリングやルーティングなど、すべてをAIに任せるのです。しかし、マルティナはある重要な事実に気づきました。それは、そのアプローチが失敗に終わるということです。
スケジューリングに関する彼女の実験では、限られたデバイス・リソースに対応する基本的なニューラル・ネットワークが、専門家によるアルゴリズムを95%の数値精度で模倣することができました。すごいと思いませんか?しかし、プロトコルのルールに従えば、その出力のうち実際に有効だったのはわずか61%に過ぎませんでした。ワイヤレス通信において、無効なスケジューリングは単に性能を低下させるだけでなく、衝突を引き起こし、エネルギーを浪費し、ネットワークを機能不全に陥らせます。
これが、彼女の核心的な知見につながりました。AIを使ってプロトコルのロジックを置き換えてはいけない。AIを、制約付きの意思決定支援メカニズムとして活用する。学習済みモデルに中間値、ヒント、推奨事項、スコアを予測させつつ、プロトコルに実際に準拠させることは、確定的なメカニズムに委ねる。
このハイブリッドなアプローチこそが、アナログ・デバイセズがフィジカル・インテリジェンスと呼んでいるものです。つまり、AIを抽象的な世界から物理的な世界へと持ち込み、そこではmsでの意思決定、不完全なセンシング、そして厳しい制約が成功か失敗かを決定づけます。
3つのソリューション、1つの基本理念
マルティナは、低消費電力ワイヤレス・ネットワークにおける3つの異なる課題に対し、3つの異なるソリューションを提案することで、この基本理念を実証しました。
スケジューリングを迅速に実現
最初の成果は、スケジューリングの計算に関するものでした。TSCHネットワークでは、各通信リンクにタイム・スロットとチャンネルを割り当てる必要がありますが、これは複雑な最適化の問題であり、従来のアルゴリズムでは入念な計算を経て解決されてきました。
マルティナのアプローチは、熟練したスケジューラを模倣するよう小型ニューラル・ネットワークに学習させ、ニューラル・アクセラレータを搭載したADI MAX78000マイクロコントローラに実装するというものでした。
その結果は驚くべきものでした。
- 推論時間は、従来のアルゴリズムで使用していた201msから104µsにまで短縮されました。
- 消費電力は1,606µJから5µJに低下しました。
これは、処理速度が2,000倍高速化し、エネルギー効率が300倍向上したことを意味します。以前はスケジュールの計算に数百msを要していたデバイスが、今ではµs単位で処理できるようになりました。これは、都市を横断するドライブを横断歩道を渡る程度に圧縮し、スタジアムの投光照明のエネルギーをレーザー・ポインタのレベルにまで縮小するようなものです。
しかし、ここには微妙な違いがあります:このモデルの出力は、プロトコルの準拠性を確保する確定的バリデータに投入されます。AIがスピードを提供し、プロトコルが正確性を提供します。
モビリティでの経路適応
2つ目の成果としては、より困難な問題、すなわちロボットが移動するとどうなるかという課題に取り組みました。静的ルーティングは機能しなくなり、パケットが喪失し、ネットワークの性能が低下します。
GENIALは、マルティナが開発した、遺伝的アルゴリズムに基づく集中型のクロス・レイヤ・ネットワーク管理システムです。これは、計算リソースに制約のあるノードで構成されるモバイル・ネットワークにおいて、高い信頼性と低遅延を維持するために、ルーティングとTSCHスケジューリングを共同で最適化するものです。50個のモバイル・ノードによる現実的な条件下で、GENIALは安定した遅延を維持しつつ、標準的なアプローチに比べて67%多くのパケットを配信しました。
その後、GENIALNetが登場しました。これは、GENIALの動作をニューラル・ネットワークに圧縮した模倣学習モデルであり、オーケストレーション時間を6~10分の1に短縮するものです。興味深いことに、マルティナの研究では、プロトコルの制約がとても厳しい場合、適切に設計されたヒューリスティックが学習済みモデルと同等の性能を発揮できることも明らかになりました。これは、たとえAIが機能したとしても、必ずしもAIが答えとは限らないことを改めて示しています。
スワームのフラッディング
3つ目の成果であるPlyoは、ロボット・スワームにおけるダウンストリーム通信について取り上げています。中央コントローラが数百台のロボットに対してコマンドや更新情報を伝える必要がある場合、標準的なアプローチは単純です。つまり、各ロボットがそのメッセージを近くのロボットに再度伝えるのです。この「フラッディング」は堅牢ですが、無駄が多い手法です。接続状態が良好なロボットが、誰にも必要とされないパケットを中継してエネルギーを浪費する一方で、到達が最も困難なロボットがようやくパケットを受信するまで、伝達全体が停滞してしまいます。
Plyoは、メッセージを再度伝える中継ロボットとして、最適な位置にあるロボットのみを選択することで、これらの課題を解決する仕組みを提供します。これにより、プロトコルを損なうことなくTSCHを最適化します。マルティナはさらに一歩進め、最適化にAIを活用してPlyoNetを開発しました。これは、最も遠いノードに到達できるよう、カバレッジを最大化する中継ロボットを選択することを学習する畳み込みスコアリング・ネットワークです。このプロトコルはあらゆる選択の安全性を保証しているため、AIは性能に全力を注ぐことができ、確定的なバリデータは不要となります。
実験室から月面へ
この研究が取り組んだ課題の多くは、OpenSwarmプロジェクトによって浮き彫りにされました。EUから資金提供を受けているOpenSwarmプロジェクトは、環境、産業、社会に幅広い恩恵をもたらす、エネルギー効率に配慮した新しい次世代の協調型スマート・ノードのスワームの実現を目指しています。物理的な実験を可能にするため、OpenSwarmでは、AIアクセラレータとして超高効率のADI MAX78000を搭載した、低消費電力の10 × 10cmのロボットDotBotを採用しました。GENIALとPlyoは、こうしたロボット、さらにはアナログ・デバイセズのリムリックのCatalyst施設で構築が進められている1,000台のロボットからなるスワームを想定して考案されました。アナログ・デバイセズのOpenSwarmへの貢献について詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
リムリックにあるようなテスト用スワームや、今後その規模やロボットの高度な技術をさらに拡大していくスワームは、この取組みのおかげで、より効率的かつ堅牢に通信できるようになるとアナログ・デバイセズは考えています。地球上ではもちろんのこと、物理的条件がより厳しく、環境も過酷で、ミスが許されない月面においても同様です。ネットワーク・アーキテクチャは依然として機能し続けることでしょう。
これが将来にどのような意味を持つか
この研究は、エッジにインテリジェンスを組み込むためのモデルケースとなるものです。これは、小さなデバイス上でクラウド規模のモデルを無理やり実行するような力業的なアプローチではなく、AIが物理的な制約の範囲内で、学習した直感に基づいて動作することで、システムを強化しつつも制御を奪わないという慎重な統合を実現するものです。
AIが抽象的なクラウド上の推論から現実世界へと移行するにつれ、重要となる課題は以下の通りです。どうすればµs単位で意思決定を行えるか?性能を最適化しつつ、安全性をどのように確保するのか?物理法則に反することなく、その範囲内で機能するシステムをどのように構築するのか?
マルティナは、そのためのひとつの道筋を示しました。このスワームは、話すことを学んでいます。そして、もしかすると、いつの日か、月の上で話すようになるかもしれません。
GENIALを試してみたい場合、マルティナのプロジェクト・リポジトリはこちらにあります。
この研究は、ソルボンヌ大学におけるマルティナ・バルビの博士課程の一部として実施されました。アナログ・デバイセズおよびINRIAパリが共同指導を行い、トーマス・ワテイン(Thomas Watteyne)教授とランス・ドハティ(Lance Doherty)博士が主導しました。これはフィジカル・インテリジェンスの好例です。AIを抽象的な領域から電気物理的レイヤへと移行させ、安全で効率的、かつ実社会での運用に耐えうる自律システムを実現するものです。